痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

希死念慮と完全犯罪

 

雪が嫌いとか、お腹が痛いとか、そんなくだらないことでは泣けるけど、泣くことでしか癒されないような傷を負ったとき、本当に泣くべき場面で私は泣けない。

 

チャチな嘘をつかれて、ヘラヘラ謝られたようなときにこそ、わんわん泣けたらいいのにと思う。

 

でも、これは私の数少ない美点なんだけれど、「死にたい」と思うことがほとんどない。

「死にたい」より「絶対殺す」が先行する。

 

昨日も、男にチャチな嘘をつかれて傷ついたけれど、「死にたい」とか「私には価値がない」とは一切思わなかった。

 

まずは「人を殺す バレない」

「完全犯罪 方法」

で検索。

そして、完全犯罪を手伝ってくれる彼氏が欲しい、と思った。

屈強で、成人男性ひとりを運べて、IQ150くらいあって完全犯罪のトリックを思いつけて、さらにサイコパス気質の彼氏が必要だ。 

どこで探せばいいの?相席屋?

 

嘘をついた男をとりあえず倫理で殴ってみたけれど、嘘をつくような人間は倫理で殴られてもちっとも痛みを感じないから、物理で殴るしかない。

倫理は無力だ。

誰のもとにも平等なのは、死と時間だけ。

私だって人を殴りたいわけじゃないけど、痛みしか通じない人もいる。

たまたまアイスピックなどを持っていたら、多分刺していただろうから、アイスピックを常備してなくて本当に良かった。

 

「じゃあ、今から俺、本気で謝るから、電話切らないで」

というヘラヘラした声を思い出すだけで、心がマッチョになる。

闘争心と殺意の塊だ。

スタンドが発現してもおかしくないんじゃないか?

今の私は、矢で刺されても死なずにスタンドを発現させる自信がある。

ちなみに私は、ザ・ワールドが欲しい。

ザ・ワールドで小銭を盗んで暮らしたい。

もし私にスタンドがあったら、私に嘘をつく男は残らず殺してしまっていただろうから、私にスタンドがなくて本当に良かった。

 

 

と、思ってはいるけれど、本当はわんわん泣いてしまいたいのもまた事実。

涙も出ないだけで。

この際めちゃめちゃに汗をかくとか、映画を見て泣くとかでも十分な気がする。

週末が来たら、とっておきの海外ドラマで泣こうと思う。

「あいつのせいで泣いてるんじゃない」という虚勢で自分を甘やかして、目が開かなくなるくらい泣こう。

 

週末の予定ができて嬉しい。

これだって、虚勢でしかないけれど。

 

 

残り15の夜を前に

ちょっと気が早いけど、一年を振り返ります。

 

 

今年は本当に大殺界で、失恋、就活失敗に始まり、変な病気をいくつかしたし、悲しいこと、難しいことがたくさんありました。

 

昨日もちょうど、不当に悲しい目を見るようなことがあり、「さすが大殺界、最後まで気が抜けないなあ」と思ったりしました。

 

いいことと言えば、ジョジョを読み始めたことくらい。

(でも勢いあまって全巻揃えたら、クレジットカードが止まり、カード会社から電話が来て、はじめて親に借用書書いて借金しました)

 他にはとくに思いつきません。

 

それでも、今年も、手首を切ったり、食べたものを吐いたりせずに365の夜を、この心と身体ひとつで乗り越えてこれたのは、本当に幸運だったと思う。

尊厳が傷ついて、心がバラバラになりそうなピンチの夜に、ただ話を聞いてくれたり、お酒を飲むために駆けつけてくれた人のことを、私は忘れないでしょう。

いいことはほとんどない年だったけど、「この夜、この人がいてくれて本当に助かった、ありがたかった」と思うことは今までで一番多かったかもしれません。

 

昨日も、深夜に「また男に嘘つかれてた💢」とLINEしたら、普段おっとりした先輩が「頭大丈夫かな?殺そう」と言ってくれて、とても楽になった。殺そう。

 

 

老いや病など、正常に機能することができなくなった局面でこそ、他者との関係性の中で生きてることが際立って感じられる、と以前読みました。

最近、身をもってわかってきた気がします。

 

私は今年、「どこかに所属して、役割を与えられて、そこでの規範を信じて、何か価値を生み出しながら暮らす」というあり方から外れてしまい、なすすべなく、茫洋と生きてきました。

毎日身体が重く、起きたらまた一日が始まることが恨めしくて、自分が今どこにいるか、どこに行きたいのかもわからないような日々を送ってきました。

その中でいくつかショックなこともあって、ボコボコに殴られたような気持ちを何度も味わってきました。

それでも私は、ただの一度として、「自分には価値がない」と思ったことはないので、もしかしたら相当したたかで、幸運の星のもとに生まれているのかもしれません。

 

苦しい夜に、手首を切ったり、食べたものを吐いたり、何かを壊したりすることなく、「自分には価値がない」と思うこともなく、どうにか朝を迎えてきたということは、今年の私にとって奇跡のように思えます。

そして、この奇跡のような事実は、来年以降の私の「ピンチの夜」を助けてくれる勇気になるでしょう。

本当によく頑張った。

 

叶わなかった理想や、報われなかった情熱がたくさんあって、その挫けたもの、死んでしまったものを持って、また365の夜に立ち向かっていかなきゃいけない。

生きることは大変な重荷だ。

それでも、何があっても死なずに朝を迎えてきました。

私は多分、大丈夫でしょう。

いくつになっても許せないものや理解できないものはたくさんあるだろうけど、よく怒って、よく泣いて、したたかに生きていこうと思う。

 

来年の目標は、「PS4を手に入れること」くらいにしときます。

 

 

泥酔のメモ

「ラーメン食べたい」

「海苔の佃煮をアテにしてもう一杯だけ飲みたい」

ルノワールの絵だけを延々見つめてたい」

「なんか知らんけど気づいたらめっちゃ肩凝ってるヤバい」

「これから家帰ってプレステ4があったらめっちゃ嬉しいだろうな」

「めちゃめちゃ顔が好みな人とご飯食べたい」

 

わりとはちゃめちゃに酔ってるけど頭に浮かんだことを頑張って文字にしました。

はちゃめちゃに酔ってるので、ぜんぶ重要なことに思えます。

 

 

ヒリヒリと

1年とか2年前は、「幸せになりたい」と鮮烈に願っていた気がする。

 

こんな夜に思い至るのは、最近は「幸せになりたい」と思うことすらなくなったな、ということ。

あまり幸の薄そうなことは言いたくないけど。

思うのはただ、遠くへ行きたいということ。

台湾あたりに連れてってよ。

拐うように、誰か。

 

わかっているのです。

そんな「誰か」はいないということは。

「誰か」も「いつか」も訪れず、あるのはこの夜だけだということも。

私は、この身体と、この心だけで、どんな夜も越えていかなければならないということも。

 

浅ましい予防線は張りたくない。

たったひとつの身を晒して、傷つきながら、生きていきたい。

他人に消費されずに生きていくことはできない。

悪魔のような人は案外どこにでもいる。

不当に傷つけられることもあるし、自分をまったく大切にできない日もある。

それでも、「身を削らない人は面白くないし、傷ついてない人は可愛くない」が私のモットーです。

ボロボロの夜に私を救うのは、「ちゃんと傷ついている人は可愛い」という私自身の思想です。

傷にだって価値はある。

 

ただ、丁寧に生きたい。

 

魔法がとける

ユーリ‼︎!onICEを全話見たり、ジョジョ一挙放送6時間を一挙に見たり、インフルエンザを満喫してます。

 

明日から社会復帰。バイトと大学。

 

四肢を投げ出して

「おうちにいるのも飽きたけど〜〜働きたくな〜〜〜〜い!

そもそも病気になりたくな〜〜〜〜い!

健康でいた〜〜〜〜い!」

と叫んでる。えーん。

 

インフルエンザ初体験レポート

生まれてはじめてインフルエンザになりました。

 

今年は本当についてなくて、ものもらい、盲腸、インフルエンザと、今までかかったことのない病気にばかりなった。

この調子でいくと、ノロウイルスにもなっちゃうかもしれない。

 

もう熱は下がったのだけれど、昨日の夜はさすがにしんどかった。

40度前後をウロウロして、「戦うビニール袋」みたいな幻覚を見た。

そして「今つらいのは私の身体じゃなくてあのビニール袋なんだ……ビニール袋は街のヒーロー……頑張れ……」とぼんやり思ったりした。

何を言ってるのかわからないと思うけど、真実。

 

あとは高熱の中、あまりに暇で、「家族の出す生活音を聞いて脳内でイメージを描く」という孤独の極みみたいな遊びを考えた。

ドライヤーの音を聞きながら、宇宙空間においてはじめて生活音を作ろうとした宇宙飛行士の物語が生まれた。

 

 

「死は誰のもとにも平等に」「メメント・モリ」って文字がつねに脳内に浮かんでてヤバかった。

 

学校もバイトも休んで昼間にテレビを見たのは、小学校の頃に戻ったみたいで良かった。

ズル休みとか、いわゆる自主休講じゃ得られない開放感があった。

 

以上が、インフルエンザ初体験レポートです。

風邪以外の病気はしない健康体が自慢だったのになあ。

あと2日休めるらしいので、ジョジョ一挙放送6時間でも見ながらゴロゴロします。

 

祈るように、逆立つように。

今夜は雪が降るそうですね。

自分でもまさかと思うけれど、雪が嫌いすぎて、わんわん泣いてしまった。

 

22歳にもなって天気に泣かされるなんて、思わなかった。

大人は正当な理由なく泣かないものだと思っていた。

正確に言えば、こんなに不安定なこころのまま、年をとるとは思わなかった。

 

泣いてばかりの夜には、10歳の、15歳の、18歳の自分を想う。

思春期の私は想像できただろうか。

大人になってもなお、身がちぎれるように苦しくて、むなしくて、誰かに助けてほしくて、答えのないことばかりが気になって眠れない夜が来るということを。

今感じている孤独は、多感な年頃ゆえの一過性のものではなくて、生涯つきまとう人生の寂しさなのだということを。

誰にも押し付けられない「人ひとりぶんの寂しさ」は、確かにあるということを。

そして「人ひとりぶんの寂しさ」には終わりがないことを。

 

 

思春期の終わりは永遠に訪れない気がします。

いまだに「生きるべきか、死ぬべきか」なんて、15歳までに解決させておくべき議題をもてあまして朝を迎えることがあります。

それでも朝が来れば着替えて化粧をして電車に乗ります。

お金のためにニコニコします。

大人になるということは、親でも恋人でもカウンセラーでもない人にSOSを見せないこと?

他人は私のカウンセラーじゃあない。

人に人は救えません。

 

思春期は終わらない。

こんな脆さはいつかなくなると期待してはいけない。

きっと、30歳になっても雪降る前夜は泣いて過ごす。

無限に。永遠に。

祈るように、逆立つように。

私の存在は有限だけど、私の思春期は永遠です。

 

朝が来るまで生きていられますように。