「宇宙と芸術展」メモ
森美術館の宇宙と芸術展のメモ。
むかしの/いまの人間が「得体の知れない大きいもの」にどう対峙してきたか(科学によって諒解しようとする行為、創作によって解体/解釈する行為)
宇宙を単なるロマンにとどめず、限りなく近づこうとする人間の営み、あらゆる方法で宇宙を諒解しようとしてきた人間の軌跡の展示
科学の信仰(現代のイコンとしての機能美)
博物館的な要素があり、すごく楽しかったです。
あと2回くらい行きたい。
生活と労働と夜景
工場夜景がすごく好き、という話。
東京でも、郊外でも、夜に工業地帯を走ればどこでも見られる。
「工場」「労働」という、華やかさからかけ離れたモノたちは、夜のバイパスにあらわれ出るとき、あまりに美しい。
そもそも夜景というのは不思議なものだ。
「綺麗なものを作ろう」として作られたわけではない、ただの生活の灯りの集合だ。
エンターテイメントとして作られたわけでもなく、かといって自然が作った風景でもない。
人々がどこかで生活したり、移動したり、労働したりしている状態を、"外側から俯瞰したとき"に初めて見られる風景なのだ。
「夜景は誰かの残業の灯りなんだよ」と皮肉っぽく言われるけれど、「実際に残業している人は絶対に夜景を認識できない」というのはたしかに面白い。
夜景の美しさと、夜景を構成している人々の生活の泥臭さは、まさにうらはらだ。
夜景のなかでも工場夜景は、よりいっそう夜景のもつ「生活と労働」という性格を想起させる。
鋼鉄、機械、ベルトコンベア、重機、単純作業、無機質。
「工場」という場所から浮かぶイメージは、こんな感じ。
工場夜景は、(普通の夜景以上に)「日々の労働」という営みの泥臭さ・単調さと、景色の美しさのコントラストを強調する。
これは、工場労働がどう、という話ではない。
工場夜景は「労働と生産のための灯り」であり、わたしたちはそれを見たときに「こんな時間まで誰かがここで働いているんだ」というふうに、(普通の夜景を見たとき以上に)「労働する個」を想起する、ということだ。
労働と生産のための灯りは、綺麗であるほどなんだか切ない。
ところで、わたしは「生活(=労働、睡眠、食事)」というものは何より難しくて、とても尊い、と思っている。
ドラマのない毎日でも、当たり前のように維持するのはなかなか難しい。
わたしたちはすぐに躓く。
社会において役割を担い、全うし続けることは簡単じゃない。
脱落したり怪我したりすることが死に直結しているランニングマシンに乗ってるみたいだ、と思う。
わたしが工場夜景を見て切なくなるのは、綺麗であればあるほど泣きそうになるのは、わたしのなかで工場夜景の美しさと「生活と労働」の尊さが結びつくからかもしれない。
工場の"内側"にいる人間は工場夜景の美しさを認識できない。
それと同じように、「生活と労働」は多くの当人たちにとって、地味で平坦なものである。
自分の生活は、夜景として観測できない。
しかし、当人からは絶対に認識できない部分で、「生活と労働」の尊さ・美しさはたしかに存在している。
工場夜景の美しさは、灯りそのものの造形美だけではない。
「労働する個」の泥臭い生活の営みから発される美しさがそこにたしかにある、と思う。
夜景の灯りのひとつひとつが誰かの生活で、そのもとにいる全ての人が何かモチベーションを持って、あるいは惰性で、生活を維持したり、あるいは維持できなかったりしている。
その「生活と労働」の存在の仕方に貴賎はなく、自分では認識できないけれど美しいものとして、たしかにあるのだ。
今握っているスマートフォンの灯りも、どこかの夜景かもしれない。
明晰に疲れているということ
わけもなく疲れている。
ここ数日無気力で、夕飯を食べたら気を失うように眠っている。
今日は禁煙も失敗するし、バイトも早退してしまった。
部屋もゴミ溜めのようだし、あーあ、もうだめ。おしまい。解散。
という感じ。
今までは「夏大好き!冬が来ると思うと落ち込む!」ってタイプの人間だったけど、今年はちがう。
秋でも冬でもなんでもいいから、さっさと来て、さっさと終わってほしい。
とにかくこの先1年がわたしのどん底なのだと思う。
「もう一年遊べてサイコー」とは言い切れない、漠然とした将来不安。
一般的な「自立」のコースからは外れてしまった。
目指すものがない。
属するところがない。
有名な大学に入って、4年間楽しく過ごして、最後にこのザマ。
わたしは「かわいそうな人」なのかもしれない。
けっきょく、何をしててもそういう気持ちがつきまとう。
きっと来年就活が終わるまで、このぬるい絶望とともにゆるゆると疲れながら過ごすのでしょう。
わたしの「疲れ」の正体は、この属するところが見つからない「ぬるい絶望」だと思う。
鷲田清一によれば、疲れとは「じぶんがそれに憑かれ、やがてそれじがじぶん自身になるはずのところのものとくい違っていること、つまり自己自身との不一致もしくはずれ」だという。
つまり、自分がいずれたどり着くべき場所・信じるべきものと、今いる場所がずれてしまっている状態が疲れとなる。
鷲田は「疲れているひと」の反対は、「深く眠っているひと」だという。
「この意味の空間、観念や象徴の家にうまく着生した者、そこにうまく住みついた者こそが、うまくだれかたりえたものだということになる。その脆さ、危うさに脅かされることなく<わたし>として、あるいは<わたし>という囲いのなかで、たしかに生きている人というのは、社会的に承認されたある意味の体系により深く憑かれたひとだということになる。」
社会の中で役割や機能を担い、何者かになれた人。
自分が「意味の空間」の中で「うまくだれかたりえ」ていると疑いもなく思えている人。
それが、「深く眠っているひと」だ。
疲れというのは、その深い眠りから覚めたときに感じられる。
今いる場所でうまく機能を担えていないという感覚。
どこであればわたしが「わたしたりえる」のかわからなくて、立ちゆかない感覚。
本来たどり着くべき場所と今いる場所が乖離しているような感覚。
なにかを信じて、憑かれて、それに夢中になって「これがわたしのやるべきことだ」と思えればどんなにいいかと思う。
「疲れのなかで、わたしはじぶんの重さを感じる。からだが重い、からだがだるい。まるで存在が粘度を増したかのよう。なにかに乗り切ることができない。なにかをやりきることができない。なにかにうまく憑かれることができぬとき、人は疲れおぼえる。なにもやる気がしない。」
しかし鷲田は、「深く眠っているひと」より「疲れているひと」のほうが明晰であると言う。
「わたしが同一のだれかであるというのは、なにかになるというその生成の過程のことではなく、なったその完了形である。その完了へといたる途上で、ひとはなにかになりかかったり、なにかになりそこなったりする。その揺れ、その生成の途上が、目が醒めているという状態である。目醒めているというのは、思考や想像力がはたらいているということである。思考や想像力はいまをいまここにないものに、現在を不在に結びつける。目醒めているときにこそ、ひとはそうでありえたかもしれないのに一度もそうでなかったものに深く触れるのである。存在しそこねたもの、あらかじめ挫けたもの、砕かれたもの、つまりは死産したもの、死んで生まれてきたものに、まなざしを届けるのである。悔恨のように、あったものをなかったらと悔いるのではなく、郷愁のように、あったものを過剰にあらせるのでもなく、あることのなかったものをありえたものとして、それをずっと引きずっている感覚。そこに疲れのひとつの形がある。
憑かれているひとより、疲れているひとのほうが、したがって明晰なのである。不可能なこと、どうにもならないことを、疲れのなかでひとはより深く知るのである。だからこそ、よく憑かれていること、つまりだれかとして<だれかになりきって>たしかに生きているときこそ、ひとはぐっすり眠っていると言ったのである。<生>とはひとつの閉塞であり、ありえたかもしれない別の可能性を閉塞することである。<生>がもし開放をこそこととするのだとすれば、疲れているとき、そしてなによりもなりきれないときこそ、ひとはより厚く生きているということになる。」
(鷲田清一「皮膚へ/傷つきやすさについて」思潮社,1999)
最後の文章、すごく好きです。
毎日ぐったりしている。
何もやる気が起きない。
わたしはもっとダイナミックな人だった気がするのに。
朝起きて、一日が始まることに疲れる。
そして、疲れていることに傷つく。
はやく季節が流れてほしいと願う。
でも、今がどん底で体が重いのは、わたしがゴミクズだからじゃなくて、「目醒めている」からだと思ったっていいらしい。
疲れてくたくたになりながら、かつてなりそこなった何者か、なりたかったかもしれない何者か、そういうものに想いを馳せることはちっとも悪くないっぽい。
何者にもなりきれない、何かを深く信じて突き進めないわたしを、なりきれないからこそ「厚く生きている」と言える言語だってあるのだ。
わたしのこの日々は「何かになりきれない・意味にうまく憑かれることのできない人が自己を生成している途上の、意志と心のずれ」という現象でしかないのだとすると、明日もちゃんと息を吸って生きていくしかない、と思う。
「前を向く」ことも「何かを信じる」ことも「地に足をつける」ことも、今のわたしにはむずかしいけれど、明日もどうにか存在しなければならない。
深く息を吸って、またねむる。
溺れるように生きてゆくしかないのでしょう。
溺れるように生きている
さいきん、たばこが上手に吸えません。
息がうまくできないのかもしれない。
お酒を飲んでるときだけはスーッと肺に入ってくる。
わたしはもっと豪快な人だった気がする。
今がどん底。
これから一年は、そう思って生きることになるでしょう。
息がしやすい場所をちゃんと見つけられますように。
ホスピスボランティアのこと
ホスピスでボランティアをしてます。
東京のはずれの、キリスト教系の病院です。
お風呂上がりの患者さんの髪を乾かしたり、お茶とおやつを配ったり、洗い物をしたり洗濯物をたたんだり。
今は3ヶ月め。
ここで仕事を教えてくれる先輩ボランティアのおばあちゃんがいる。
たぶん80代くらい、すっごく元気。
自転車で40分かけて来てるらしい。
この人がすっごく良くしてくれて、なんというか、クリスチャンの慈悲深さを感じる。
たとえば、
「若いのにえらいわね」と、いつもわたしに敬意を持って接してくれる。
(わたしは人のためになりたいとか無償の愛を捧げたいなんて考えたこともない人間なんです、と恐縮してしまう)
「あなたがいずれ自分のやりたいことを見つけて、望む仕事に就けるよう、たまに神様にお祈りしてるのよ」と言ってくれる。
(「あなたのためを思って」と就職についてお説教してくる人間は多いけど、こういう形で「わたしのためを思って」くれる人間ははじめて。すごく救われる)
「あなたに読んでほしい本を見つけたの」と、本をくれる。
新品の、星野富弘さんの自伝だった。
(なんでここまで良くしてくれるんだろう、と、やっぱり恐縮してしまった)
(クリスチャンの人がみんなこうだとは思わないけど)こんな人には会ったことがないので、毎回びっくり。
前回のブログに書いたけれど、「役に立つ/立たない」を尺度にした機能性志向の現代社会において、こういう「純粋な好意」って、本当に珍しい。
わたしは(ボランティアなので)何の権限もなくて、簡単な作業しかできない。
そんなわたしを、「役に立つ/立たない」以外の尺度で見て、肯定してくれる人がいる。
これってほんとに、これだけで生きていけるくらいすごいことだなあ、と思います。
そもそも、ボランティア先の病院自体が
「人間を機能や目的や役割から解放して、生きてることそれ自体をフラットに肯定する」
場所だなあ、と感じます。
わたしがボランティアを始めたきっかけは、
「体の自由や生活の選択肢を奪われてもなお残る、人間それ自体の尊厳って何?そんなものあるの?」
と疑問を抱いたからなんです。
でもこの考え方自体、機能性志向に毒されてますよね。
「何か役に立たないと価値がない」
「自分でいろんなことを選んで、生活できないと生きる意味がない」
みたいな。
ボランティア先の病院は、ホスピスということもあり、職員さんも特別穏やかです。
職員にはクリスチャンは(たぶん)ほとんどいないんだけど、
「何もできなくても、その人の存在を肯定する」
ということが自然にできている。
就活で「自分がいかに役に立つかを社会に向けて表明できなければ価値はないのと同じ」と思って苦しく過ごしていたわたしからすると、ほんとうに珍しい場所だなと思います。
ふだんはアルバイトや就活をして、「自分の価値を表明してお金を稼いで生活する」というミッションの中で生きているわたしにとって、この病院はすこしだけ息のしやすい場所になりつつあります。