痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

泥酔のメモ

「ラーメン食べたい」

「海苔の佃煮をアテにしてもう一杯だけ飲みたい」

ルノワールの絵だけを延々見つめてたい」

「なんか知らんけど気づいたらめっちゃ肩凝ってるヤバい」

「これから家帰ってプレステ4があったらめっちゃ嬉しいだろうな」

「めちゃめちゃ顔が好みな人とご飯食べたい」

 

わりとはちゃめちゃに酔ってるけど頭に浮かんだことを頑張って文字にしました。

はちゃめちゃに酔ってるので、ぜんぶ重要なことに思えます。

 

 

ヒリヒリと

1年とか2年前は、「幸せになりたい」と鮮烈に願っていた気がする。

 

こんな夜に思い至るのは、最近は「幸せになりたい」と思うことすらなくなったな、ということ。

あまり幸の薄そうなことは言いたくないけど。

思うのはただ、遠くへ行きたいということ。

台湾あたりに連れてってよ。

拐うように、誰か。

 

わかっているのです。

そんな「誰か」はいないということは。

「誰か」も「いつか」も訪れず、あるのはこの夜だけだということも。

私は、この身体と、この心だけで、どんな夜も越えていかなければならないということも。

 

浅ましい予防線は張りたくない。

たったひとつの身を晒して、傷つきながら、生きていきたい。

他人に消費されずに生きていくことはできない。

悪魔のような人は案外どこにでもいる。

不当に傷つけられることもあるし、自分をまったく大切にできない日もある。

それでも、「身を削らない人は面白くないし、傷ついてない人は可愛くない」が私のモットーです。

ボロボロの夜に私を救うのは、「ちゃんと傷ついている人は可愛い」という私自身の思想です。

傷にだって価値はある。

 

ただ、丁寧に生きたい。

 

魔法がとける

ユーリ‼︎!onICEを全話見たり、ジョジョ一挙放送6時間を一挙に見たり、インフルエンザを満喫してます。

 

明日から社会復帰。バイトと大学。

 

四肢を投げ出して

「おうちにいるのも飽きたけど〜〜働きたくな〜〜〜〜い!

そもそも病気になりたくな〜〜〜〜い!

健康でいた〜〜〜〜い!」

と叫んでる。えーん。

 

インフルエンザ初体験レポート

生まれてはじめてインフルエンザになりました。

 

今年は本当についてなくて、ものもらい、盲腸、インフルエンザと、今までかかったことのない病気にばかりなった。

この調子でいくと、ノロウイルスにもなっちゃうかもしれない。

 

もう熱は下がったのだけれど、昨日の夜はさすがにしんどかった。

40度前後をウロウロして、「戦うビニール袋」みたいな幻覚を見た。

そして「今つらいのは私の身体じゃなくてあのビニール袋なんだ……ビニール袋は街のヒーロー……頑張れ……」とぼんやり思ったりした。

何を言ってるのかわからないと思うけど、真実。

 

あとは高熱の中、あまりに暇で、「家族の出す生活音を聞いて脳内でイメージを描く」という孤独の極みみたいな遊びを考えた。

ドライヤーの音を聞きながら、宇宙空間においてはじめて生活音を作ろうとした宇宙飛行士の物語が生まれた。

 

 

「死は誰のもとにも平等に」「メメント・モリ」って文字がつねに脳内に浮かんでてヤバかった。

 

学校もバイトも休んで昼間にテレビを見たのは、小学校の頃に戻ったみたいで良かった。

ズル休みとか、いわゆる自主休講じゃ得られない開放感があった。

 

以上が、インフルエンザ初体験レポートです。

風邪以外の病気はしない健康体が自慢だったのになあ。

あと2日休めるらしいので、ジョジョ一挙放送6時間でも見ながらゴロゴロします。

 

祈るように、逆立つように。

今夜は雪が降るそうですね。

自分でもまさかと思うけれど、雪が嫌いすぎて、わんわん泣いてしまった。

 

22歳にもなって天気に泣かされるなんて、思わなかった。

大人は正当な理由なく泣かないものだと思っていた。

正確に言えば、こんなに不安定なこころのまま、年をとるとは思わなかった。

 

泣いてばかりの夜には、10歳の、15歳の、18歳の自分を想う。

思春期の私は想像できただろうか。

大人になってもなお、身がちぎれるように苦しくて、むなしくて、誰かに助けてほしくて、答えのないことばかりが気になって眠れない夜が来るということを。

今感じている孤独は、多感な年頃ゆえの一過性のものではなくて、生涯つきまとう人生の寂しさなのだということを。

誰にも押し付けられない「人ひとりぶんの寂しさ」は、確かにあるということを。

そして「人ひとりぶんの寂しさ」には終わりがないことを。

 

 

思春期の終わりは永遠に訪れない気がします。

いまだに「生きるべきか、死ぬべきか」なんて、15歳までに解決させておくべき議題をもてあまして朝を迎えることがあります。

それでも朝が来れば着替えて化粧をして電車に乗ります。

お金のためにニコニコします。

大人になるということは、親でも恋人でもカウンセラーでもない人にSOSを見せないこと?

他人は私のカウンセラーじゃあない。

人に人は救えません。

 

思春期は終わらない。

こんな脆さはいつかなくなると期待してはいけない。

きっと、30歳になっても雪降る前夜は泣いて過ごす。

無限に。永遠に。

祈るように、逆立つように。

私の存在は有限だけど、私の思春期は永遠です。

 

朝が来るまで生きていられますように。

 

彼について、あるいは誠実さについて

一年くらい前に好きだった男の子に、突然呼び出された。

 

おしゃれで、趣味がよくて、律儀で、人間らしい男の子だった。

私のほうが年上だったけど、とくに音楽とタバコの趣味は、彼からたくさん影響を受けた。

とにかくすーーっごく好きで、ふたりで海を見にいったりもしたけれど、どうにも脈がなくて、あまりにも脈がないからこのまま吐き捨てるように告白してそのまま縁を切ろうかと思ったほどだった。

ぎりぎりのところで踏みとどまって告白はしなかったけれど、あまりの脈のなさに勝手に傷ついて、半年以上連絡をしなかった。

 

それが今日、突然の電話で「ちょっと会えませんか」なんて言われたものだから、「アムウェイの勧誘か?」と思わず身構えた。

 

結論としては、アムウェイじゃなかった。

しばらく連絡をしなかったこと、借りた本を一年近く返さなかったことを謝りたかった。

縁が切れたのかと思ったけど、どこかで会ったときに気まずくなりたくなくて連絡した。

また仲良くしてほしい。

大学生の間だけじゃなくて、社会に出てからも付き合いを続けていきたい。

というようなことだった。

 

なにこれ、最高。

「 末長くお友達宣言」をされたわけだけれど、もう、いい。全然いい。

 

バツグンにおしゃれで趣味がいい男の子がわたしの話を聞いてくれて、一緒に出かけてくれて、好きな歌を一緒に口ずさんで、共感してくれる。

影響を受けること、与えること。

それだけで最高に誇らしくて、何度も反芻して、思い出だけで生きていけるような、そんな気持ちがする。

そういう相手だった。

 

買い物に行けば、彼のスニーカー選びに私がアドバイスして、私の財布選びを彼が手伝う。

わたしが、最近なんかQUEENが好きなんだよ、とか、ユーミンばっかり聴いちゃうんだよ、と言うと、彼がQUEENのギターソロは最高という話とか、ユーミンのベストアルバムの「海を見ていた午後」から「中央フリーウェイ」に繋がるところが最高という話をする。

私の好きな絵の話をしたり、彼の好きな映画の話を聞いたりする。

「私たちは似ているから、私が好きなものはあなたも好きなはずだ」とお互いがなぜか確信している。

彼の父親が亡くなったときは、「自分のために生きてくれる人のために、その人からのまなざしに応えるために生きざるを得ない私たちについて、まなざしが失われるおそろしさ」ということを、小さな声で、ぼそぼそと朝まで話した。

 

本当に、告白しなくてよかった。

告白しなかった後悔はよく取り沙汰されるけど、告白しなくてよかった、これが正解、とはあまり聞かない。

告白して困らせてやりたかったし、気まずい思いをしてほしかったけれど、ぎりぎりのところでしなかった、過去の選択が報われた気がした。

勝手に傷ついて勝手に疎遠になった私に、これからも会いたいと言ってくれる。

それはもう価値のある言葉だった。

そして、かつての私の態度は、「良き友人」としては誠実なコミュニケーションではなかったと反省して、恥ずかしくなった。

これからはデニムを履いて会いに行けるし、困らせたいなんて思うこともないでしょう。

 

 

テラスハウスの夜

昨晩は、大学2年生の男の子ふたりと、徹夜でテラスハウスを観る夜だった。

ふたりともバンドマンで、家にはレコードがあって、本棚には浅野いにお市川春子東村アキコがある。

モラトリアムのための館って感じ。

いままでわたしの周りには、「俺たち暇なんすよ」って言って、毎日集まってはレコードを聴いて、ゴロゴロして、週に数時間だけ楽器を弾くような生活をしてる男の子はいなかったので、少なからず新鮮。

享楽的で退廃的だけど、堂々とモラトリアムしてて、羨ましいと思った。

 

けっきょく明け方6時までテラスハウスを観て、1限と2限は諦めて、昼頃にのっそりと起きて3限に出る。

 

予定は詰まってたほうがいい、

暇よりかは忙しいほうが充実してる、

何かに夢中になることが好ましい、

どこかで何かの役割を担うことはいいことだ、

という価値観に逆らうこと。

普通のわたしは、彼らがとても羨ましかった。

 

わたしにとって、「確かなもの」は何だろう。

「守るべき生活」って、どこからどこまで?

ああ、けっきょく悩むことをやめられないわたしには、享楽的で退廃的な生活は、どだい無理かもしれないね。