痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

フランスの人間国宝展

「フランスの人間国宝」展に行きました。

日用品を買うこと、所有すること、そのために働くことについて。

 

フランスの人間国宝(メートル・ダール)は、日本の人間国宝制度を参考に、1994年に作られたらしい。

展覧会では15人の作家の手工芸品を展示していた。

 

羽根細工とか、ガラス工芸とか、鑑賞品寄りの工芸品も精巧で素敵だったけれど、私がとくに気に入ったのは日用品のほう。

傘とか、扇とか、鞄とか、眼鏡とか。

 

もしこのうちひとつでも持つことができたら、とか、プラスチックのレプリカでもいいからミュージアムグッズとして売ってくれないかな、とか、とにかく「所有できたら」という想像ばかりしてしまった。

「これが買いたい」とか、「私のものにしたい」とかって、美術館や博物館ではあんまり感じない類の欲望だと思う。

でも展示されているのが日用品になった途端、「欲しく」なってしまうのは少し俗っぽくて、庶民らしいこころの動きだなと思っておかしかった。

 

おばさんたちが

「素敵ねえ」

とか

「こんなの持ってたら、葬式の時とかにパッと開いて……」

とか話してたのも良かった。

普段は、美術館でおばさんたちが連れ立って喋っていると「うるせえな」と思うんだけど、今回ばかりは「そうだよねえ」と思ってしまった。

人間国宝の作った最高の扇子が恭しく展示されてたら、そりゃ「こんなの持ってたら」って考えたくなっちゃうよね。

 

ところで、私はアーツ・アンド・クラフツ運動がすごく好きだ。

正確には好きというより必要だと思う。

(アーツ・アンド・クラフツ運動はすごく簡単に言うと、19世紀末に、産業革命によって粗悪な工業製品があふれた世の中で、「職人による手工芸品を見直そう、生活の中にこそ芸術はあるべきだもの」という動きです)

この「生活と芸術の一体化」、蔑ろにしがちである。

だって、われわれ若者は本当にお金がない(大きく括るのは良くないかもしれないけれど)。

それに、傘は盗まれるし、食器は割れるし、眼鏡も寝起きに踏んづけたらおしまいだし。

自慢する相手もいないし、いたとしてもどうせその人だって私と同じくらいお金がない。

美術館で絵は観るけれど、鑑賞と所有はまた別の話。

1000円で観られる美術館の絵が、私の生活の中で精一杯の「芸術」だ。

食器も、眼鏡も、傘も、安くて実用的なものはたくさんある。

壊れても失くしても諦めのつく、代わりのきくものを持つのが、身の丈に合っている。

最高の物に見合った「ていねいな暮らし」はまだできない。

「時計なんかiPhoneでいいじゃん」

「傘なんかどうせなくなるんだからビニ傘が合理的だよ」

それはたしかにそうなのだ。

事実、そう。

 

それでも、それでももし、「最高のひとつ」を持つことができたなら、と想像することを私たちはやめられない。

もしも毎日目にする日用品のうち、最高のものを生涯で一度でも手に入れることができたら。

一生その日のことを忘れないだろう。

生活の中で使うたび、何度でも新鮮に、それを手に入れた時のこころの震えを思い出すだろう。

そういう「最高のひとつ」をいつか手に入れるために人は働くのだ、と言われたら、納得しちゃうと思う。

安くて実用的なものがたくさんある世の中で、それでも私はいつか手に入れる「最高のひとつ」のために働きたい。

合理的じゃないけれどこころを震わせる「芸術」を、生活の中で所有したい。

 

最近はお金がなくて気持ちまでひもじい。

人間国宝の手工芸品じゃなくても、もっとアベイラブルな「最高のひとつ」は日々生み出されていて、しかしそれすらちっとも手に入れられない。

リボ払いの返済のためにバイトする日々とか、卒業したら待ち構えてる奨学金の返済が私の現実であり、生活なんだけれど。

それでも想像することだけは止めちゃいけないな。

「最高のひとつ」を所有したいこころの動きを「見栄をお金で買ってるだけ」みたいな言い方は死んでもしたくない。

今はとりあえずビニール傘。

歪んだ眼鏡のつるに輪ゴムを巻いてすべり止めにしてる日々。

これが私の身の丈、今はまだ。

でもいつか。