痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

宇宙の中で良いことを決意する時に

 

先月、1年半やっていたボランティアを辞めた。

何だって始めるより終わらせることの方が難しい。

 

たまに、亡くなった患者さんの顔を、彼らの描いた絵を、詠んだ短歌を、撮った写真を思い出して眠れなくなる夜がある。

でもそれはちっとも美しい感傷じゃないし、ナイーブさでも何でもないと知っている。

私はあくまで他人として、部外者として、ただ彼らが生きていて、絵を描いたり歌を歌ったりして暮らしているのを見ていただけなのだから。

 

人に親切にしたいとかそんな気持ちで始めたわけじゃなかった。

ただ知りたかったんだと思う。

どんな境遇にあっても、何ができてもできなくても、人がすべて他者にとって特別で、代替不可能であること。

たとえ何にもならなくても、意味があってもなくても、人が絵を描いたり写真を撮ったりする心の動きの中に、確実に此在性(シンプルにいのちと言い換えてたっていい)があること。

一週間あれば花は枯れること(ボランティア先にはいたるところに季節の花が飾ってあって、毎週誰かが交換していた)、人は死ぬこと、人生は反復じゃないこと。

そういうことを、人に何かを与えようとする中で、私自身が与えられたかった。

 

思えば去年は、就職して、社員Aとしてできることできないことで割り振られたり交換されたりして、そのために泣いたり怒ったりうんざりしたり、毎日化粧して電車に乗ったりするのが耐え難く思えて、モラトリアムを延長したんだった。

(書き出すとひどく幼稚に見えるけど、切実なこころだった)

今はわりと(やっと?)、そういうのもやるしかないね、という気持ちでいる。

 

悪い人はいないけどちょっと失礼な人はたくさんいる。

雨の日の満員電車とか、風邪をひいてても関係なくやってくる平日とか、嫌われるのと同じくらいナメられるのが嫌だとか、そういうことに心を割く中で、思い出したりするだろうか。

覚えた歌のこと(60年くらい前の歌や、聖歌をやたら覚えてしまった)、水を替えた花のこと、私の人生から去っていった人や場所のこと。

生きることは本質的には反復じゃない(と思いたい)けど、不在のもの、かつてあったものたちから勇気をもらわないと歩くのが辛い程度には反復だ。

 

明日はレディースデーだから帰りに映画を観に行こう、ヤッター、がんばろう、みたいな、それくらいの単純さで生きていける日と、そうじゃない日があって、そういう日をやり過ごすための記憶は、やっぱり多い方がいいと思う。

 

 

明日はレディースデーだから、帰りに「アトミック・ブロンド」を観に行こう。

単純な、だけど切実なこころで生きていたいね。

 

 

 

 

 

もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?

並行する世界の僕は

どこらへんで暮らしてるのかな

広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

 

神の手の中にあるのなら

その時々にできることは

宇宙の中で良いことを決意するくらい

 

(流動体について/小沢健二