痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

首のある他者

 

ご無沙汰してます。

 

ホスピタリティ論、〈歓待〉論について書きたいなーとずっと思っていたのですが、考えがまとまらず、そのままにしてました。

おもに卒論のためですが、ホスピタリティ論をかじり始めたら、日々の中で少しずつピンと来ることがあって、面白いです。

 

生活は変わらず。

金髪にしたり、パフェを食べたり、山に登ったりしてます。

そろそろハイビスカスを育てたいな。

春からは、空間デザイン系の仕事をすることになってます。

 

今日、はてブロからコメント通知メールが来て、ブログのことを思い出した次第です。

 

こういうのって、忘れたころに来るもんですね。

 

コメント自体は残念ながら悪意のあるものだったんですけど、「他者にとって顔と名前を持つ個であること」について考える機会になったので、整理しがてら書きます。

 

 

私の専門は臨床哲学なのですが、この哲学の前提、原則のひとつとして、

「顔と名前を持つ個として他者とコミュニケーションをとること」

がある。

 

哲学の一般的なイメージである

「神の視点、普遍性、真理の獲得」

を目的とするのではなく、むしろ個別具体的なひとつの事例によって、普遍的だと思っていた真理が揺さぶられること。

「おのれ自身の端緒がたえず更新されていく経験」(メルロ=ポンティ

ここに臨床哲学の特異性がある。

 

「顔と名前を持つ」具体的かつ個別的なひとりの主体として、おのれと異質である他者と出会うこと。

つまり、「誰でもいい誰か」じゃだめなんですね。

交換可能な誰か、首のない匿名の誰か。

それじゃコミュニケーションは成り立たない。

言葉の応酬はあったとしても、それは「同一性が揺さぶられる経験」「おのれの端緒がたえず更新されていく経験」にはなりえない。

 

ここでもメルロ=ポンティを引いておくと、

哲学はおのれの足許に世界をうずくまらせているのではない。

哲学は局部的な視角いっさいを網羅する「より上位の視点」ではない。

哲学はなまの存在との接触を求め、そのうえ、そこを決して立ち去らなかった人々から学び取っていく。

メルロ=ポンティシーニュ」、海老坂武訳

 

 

つまり「愛とはこれだ」「誠実さとはこれだ」「言葉とは、コミュニケーションとは、人間とは、他者とは、共生とは」の普遍的な答えを目指すわけではなく、人間存在を俯瞰する神の視点を欲しがるわけでもなく、ただ「顔と名前のある個」としてなまの存在と接触していくこと。

これが出発点だというのですね。

 

 

 

ところで、「スルーが一番!」みたいなこと、言うじゃないですか。

インターネットリテラシーとして。

私もインターネットネイティブ世代なので、ずっとそれが当然だと思って生きてきました。

 

で、今日、「それってなんでかな」と、ちょっと考えたんです。

だって、悪意があるコメントといえど、過去記事をざっと読んでくれてたっぽいし、何か返したほうがいいのかな〜とか思うじゃないですか。

あるいは、殴り合う選択肢もあるかもしれない。

どっちにしろ、コミュニケーションだ。

 

でも、当たり前だけど、どんなバックグラウンドを持った人かわからないんですよ。

たとえばその人は、自分の経験則から、めちゃくちゃタメになる教えがあってそれを伝えたいのかもしれない(ないと思うけど)。

あるいは、たまたま他人の悪意にめちゃくちゃ傷ついていて、誰彼構わず傷つけたい気分なのかもしれない(これはありえる)。

もしかしたら私の友達か血縁者で、私のためを思ってあえて乱暴な言葉をかけることで、律しようとしてくれたのかもしれない(最悪のお節介ですね)。

 

わからないけど、想像の余地は数え切れないほどある。

たとえば、私が悪意に対して悪意で殴り返したとして、このバックグラウンドによっては非常に後味の悪い思いをするかもしれない。

本来感じる義理のない罪悪感を感じるはめになるかもしれない。

 

想像していくとキリがなく、とにかく「顔と名前のない他者」とはコミュニケーションがとりようがないということ。

代替可能で首のない「敵」像は、私には作れない。

なぜかというと、

 

他者はなにかある意味において対象的にとらえられるものではなくーーたとえ「理解」ということばをもってしてもーー、したがって意味において分類されるものでもない。

分類するとは、その存在を交換可能なものとみなすことである。

が、人間を交換可能なものとみなすこと、それこそ「根源的な不敬」であるとレヴィナスは言い切る。

 

鷲田清一「『聴く』ことの力 ーー臨床哲学試論ーー」

 

 

どこの誰でもいい「敵」として他者を分類することはできない。(「根源的な不敬」をはたらくことは私にはできない)

けれど、首のない匿名の他者を、「代替不可能な個」として尊重することも不可能だ。

そうなると、コミュニケーションを放棄せざるを得ない。

「スルーが一番!」というリテラシーがこういう理由によるとは思わないけれど、納得はできた。

 

 

少し脱線するけれど、「他者の分類」って無意識なのに罪深いよね、と思います。

「スカッとジャパン」に出てくるような、わかりやすい「敵」とか、「最悪おばさん」とか、いないし。

いたとして、理由があって怒ってたり、病気だったりするわけだし。

いわゆる「ウェイ大学生」みたいなくくりもあるけど、実際「ウェイ大学生」みたいな人も、20数年生きてきた相応の厚みと自我のある個別の人間だし。

「ザ・女」みたいな人も、「ザ・意識高い」みたいな人も、そりゃFacebookの投稿だけ見たらいるけれど、バックグラウンドと思想と嗜好がある、替えのない人間だし。

こういうわかりやすい像で他者を分類する意識は、本当に「根源的な不敬」そのものだなあ、と思います。

私自身にも、悪意なく根付いてる意識なんだろうな。

せめて自覚できる時は、意識的に思い出したい。

 

 

長くなってしまったけれど、何度も本で読んできた「顔と名前のある個として他者に触れる」ことを、暮らしの中で実感できることが増えてきた、という話です。

 

なまのコミュニケーション、そこから立ち去らないこと、他者を諦めないこと。

究極的に難しいですね。