痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

暮らしだけが規定する

 

今日、急に思ったんです。

マグカップが欲しい、と。

 

うちにある中で一番オシャレなマグカップは、3年くらい前の誕生日にバイト先の人からもらった、niko and…の北欧風マグです。

それ以外のマグは、まあダサいんですね。

キャラものがほとんどで、あとはローソンのシールを集めてもらったやつとか。

それで、今日急に「ダサいマグはもう嫌だ!」って気持ちになってしまった。

ネットショッピングでそれはもう沢山のマグを見たけど、どれもなんだか決め手に欠ける。

ついには陶芸教室の手作り体験まで調べだしまう。

それも含めてピンとくるものはなくて、かれこれ3時間くらい、マグカップを探して過ごした。

 

それで、ふと思ったのは、「"家にあるマグカップがダサい"って悩み、相当平和な悩みなのでは」ということ。

こっちは結構真剣に検討してるつもりなんだけど、客観的に見たら、多分これはかなり平和な暮らし。

そして主観的に見たら、人間のかなり理想的な状態。

 

最近、「生活が趣味」になってきたな、と思う。

たとえば、「帰ったら洗濯干して、まいたけが3パックあるから炒めて、お肉は明日の朝に炒めて、そのままお弁当にしよう。保温できる丼、洗ってあったっけ?」とか考えてるとき。

枯れてしまったサボテンに思いを馳せてるとき。

明日の気温に一喜一憂してるとき。

 

もちろん趣味はあるけど、生活を少しでも蔑ろにしようと思うほどの趣味はなくて。

明日の気温以上の関心ごともなくて。

それって、「無趣味」じゃなくて、「生活が趣味」ってことでいいんじゃないの、と思う。

毎日を少しでも幸福に生きるために時間を使うこと、これって少しも無駄じゃない。

結局買わないマグカップを探したこの3時間も、ちっとも無駄だとは思わない。

結局、漫画を読むとか、美術館に行くとか、心を動かされるものを探すとか、そういう趣味と呼ばれるものだって、「生が単純な反復であることをいかに忘れるか」の知恵だし。

 

けっきょく、私には生活以上の趣味はないよ。

素直にそう思えるようになってきた。

 

前はたぶん、認めたくなかったんだと思う。

どんなにかっこつけても所帯染みなきゃ生きてはいけない、自分にしかできない仕事なんてなくても「パンのための労働」に身をやつさなければならない。

頭ではわかっていても飲み込めなかった、苦い論理。

 

破滅願望は、多分もうない。

私は生活を愛している。

べつに汗をかいたり、修行したりしてないけど、必死こいて生きてるよ。

漫画も読むし、美術館にも行く。山にも登るし、お菓子も作る。刺繍もするし、サボテンも育てる。一人で旅行もするし、ドライブにも行く。お酒もタバコも好き。だらしないのも大好きだけど、カッコつけるのも楽しい。

どれも生活の一部だよ。

どれかひとつをとって、特別だなんて思わない。

どれかひとつが私を規定してるとも思わない。

生活をするだけ。淡々と。

今日は金曜日、明日は土曜日、明後日は日曜日。

淡々と、着々と生きていこう。

これも、意外と簡単じゃない。