スティール・ボール・ランの「切実さ」
最近、ジョジョ7部スティール・ボール・ランを読みまして、「めっちゃエモい!最高!傑作!」という気持ちがおさまらず、寝ても覚めてもSBRについて考えてます。
STEEL BALL RUN ―ジョジョの奇妙な冒険Part7 コミック 全24巻 完結セット (ジャンプコミックス)
- 作者: 荒木飛呂彦
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2011/08/11
- メディア: コミック
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6部までのエモさは、「完全に詰んだと思わせてから戦況をひっくり返す圧倒的なパワー」そして「勧善懲悪」、これらがもたらす高揚感、快感。
SBRには、こういった要素とはまったく異質な「最高さ」がある。
ジャイロとジョニィの「存在の仕方」が、苦しいくらいに迫ってくる。
その迫ってくるもの、胸を打つものは何か?と考えたときに、わたしは「切実さ」ではないかと思ったのです。
6部までは絶対的な「善と悪」の二項対立があった。
「悪」なるものは強大な力を手に入れ、それを自分の「欲求」のために使おうとする。
(生物の頂点に立ちたい、非合法的なフェチズムを満たしたい、理想の世界を作りたい、など)
「正義」である主人公チームはそれを食い止めるべく闘う、という共通した構図があった。
SBRではどうだろうか。
それぞれが自分の望むもののためだけにゴールと遺体をめざす。
わたしはそこがすごく良いなあ、と思うのです。
「歩けるようになりたい」も、「納得出来ない判決を覆したい」も、「最高の権力を得たい」も、「完全な国家を作りたい」も、ぜんぶ、「欲」だ。
スケールの大小はあれど、貴賤はない。
登場人物たちがそれぞれ命を賭けるだけの価値と熱量のある「欲」である。
その中でもとくにジャイロとジョニィの「存在の仕方」に胸を打たれるのは、「欲」の内実です。
彼らは、一度「失った人」なんですね。
普通の人が普通に享受してるはずのものを一度失っている。
すでに失われた足。
すでに失われることが決定している少年の命。
彼らの尊厳は一度大きく傷つけられている。
(自業自得の部分はあれど)失わなくてよかったはずのものをなぜか失っている者の飢え。
マイナスから「ゼロ」に向かう渇望。
他の参加者たちのように何かを「得る」ためではなく、「取り戻す」ための旅。
なぜ自分がここ(マイナス)に立っているのか、なぜ失わなければならなかったのか、納得したい・しなければならない、という衝動。
この、マイナスに立つ者の「切実な欲求」にわたしは共感したい。
「取り戻したい」、「納得したい」、この欲求のために命を賭ける姿は苦しいくらいに切実だ。
ところで、わたしは「仕方ないこともある、割りきっていこう」みたいな暴力的なポジティブさがすごく嫌いなんです。
「なんで失っているのか」「なんで嫌なことは嫌だと思ったまま生きていけないのか」
こういう問いをしたとき、多くの人は、問いに対する「答え」(「なぜ?」に応えうる理由)を説明できないくせに、暴力的なポジティブでもって「答え」とするじゃないですか。
本当にせこい、恥を知れ、っていつも思うんです。
お前ごときに言われて割りきれるくらいなら最初から割りきってるっつーの。
「そういうものなんだから」とか言うくらいならちゃんとわかんないって言えよ、わかんねーのにわかったふりすんな、と。
だから、SBRが、諦めきれない彼ら、割りきっていけない彼らの物語なのは、すごく共感できる。
失ったものに固執してる彼らは、ある意味ネガティブかもしれない。
でもSBRを読んで、彼らをネガティブだと思う人はたぶんいない。
仕方ないことを仕方ないと納得できないまま大人になった彼らは、すごく人間らしい。
そして、社会的にはあまり価値がなくても「自分にとってもっとも価値ある未来」に向かって、汚れながら這いつくばって、なりふり構わず向かっていく姿は、どうしようもなく前向きだ。
最後に、ジャイロの「納得はすべてに優先する」というセリフ。
これ、ほんとに、「それな」って感じですよね。
ジョジョの中で一番好きなセリフかもしれない。
わたしも納得のためにあがきたい。
大人になれない22歳の、SBR感想でした。