痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

**のかけらの指輪を

 

子供の頃お世話になった人が、先日亡くなった。

 

うちは母子家庭だったから、母が夜勤の時は母の知人の家をローテーションで預けられていた。

それも小学校低学年くらいまでの話で、あまり記憶にはない。

好きな人、そんなに好きじゃない人、くらいの印象は子供心に抱いていた。

 

亡くなったのは、「好きな人」だった。

母より懐いてた、と聞かされるけどあんまり覚えてない。

お見舞いに行くと、「今日はお母さん仕事?ひとりで寂しくない?」と言われて、もう23歳だから大丈夫だよお、と笑った。

いまだに子供のままのイメージらしい。

 

見知った人が亡くなるたびに、エピソードでしか他者を語れない自分に気づく。

「優しい人だった」とか「誰とでも仲良く」とかそういう言葉は言えば言うほど遠く離れていくような、エピソードの中でしかその人は生きていないような、そんな気がしてしまう。

 

 

その人に関しては、たらこのエピソードばかり覚えている。

私は偏食で食わず嫌いの多い子供だった。

見たことない食べ物はよくわからないから食べない、あれも食べないこれも食べない、ご飯の時間は楽しくない、そんな子供だった。

数少ない好物にたらこがあったけれど、これも皮が気持ち悪いから中身だけちょっと食べてごちそうさま、って感じだった。

いろんなところに預けられてたけれど、たらこの皮をむいて出してくれたのはその人だけだった。

祖父母の家でも「わがまま言わずに全部食べなさい」だったし、そりゃそうだよな、王様じゃないんだし、と思っていた。

だから子供心に「こんなことまでしてもらえるなんて王様みたいな待遇だ」と秘かに感じたのだ。

 

今でも明太子の皮は少し気持ち悪い。

噛みきれないし、血管とか見えてるし。

でももう大人だし、もったいないし、わがまま言わずに食べなきゃ。

いや、全然食べるけど。

大人だから全然食べるけど、いつでもちょっとだけ、私にたらこの皮をむいてくれたあの人のことを思い出す。

もうたらこの皮をむいてくれる人はいないんだな、と思う。

私がなんでも美味しく食べられる大人になって、その分だけ時が流れたからあの人も亡くなった。

当たり前のこと、時は誰にも平等に。

そのことにちょっとだけ、噛みきれない思いをする。

 

おやすみなさい。