痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

500キロカロリーのメランコリー

昨日、まあまあ酔っ払って、寂しくて仕方ない中書いたブログ(の下書きに残ってたやつ)です。

 

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少し酔って、寂しくて気が狂いそうな夜に、ラーメンを茹でる。

やめたほうがいいかな、と5分くらい悩んだけど、どうせこんな夜のために買ったラーメンだ。

ちょうど明日で期限も切れる。

「気が狂いそうな夜のためのラーメン」、期限ギリギリの今日まで、出番がなかったことのほうが驚き。

534カロリー。うるせえ。

 

インスタントに欲求を満たしたい、そのためのラーメンなので、すぐに食べられるように扇風機で冷やす。

明日は多分、胃もたれで目を覚ます。

 

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ひとつの記事にもなりきらない、断片的な寂しさだけれど、消すとまた別の寂しさが湧いてくるんだろう。
こういう、寂しい夜の下書きが、ブログにもTwitterにもたくさん残っている。

自嘲的な気持ち、暴力的な気持ち、許さないという気持ち、「エモい」気持ち。

いろんな激情を書いては、すべて消すこともできず、「下書きに保存」してしまう。

それってとっても卑屈だ。
誰にも知られなかった、死産の孤独として、積もっていく。
知られずに済んでよかったとも思うし、こういう半端な理性こそが私をひとりぼっちにしているのでは、とも思う。

 

文章にもなりきらない半端な寂しさだけど、深夜1時にひとりでラーメンを茹でた昨日の私を見捨てたくないな、となんとなく思った。

 

パリ、ジュテーム」の中の「14区」という短編を思い出す。

7分足らずのドラマだ。

アメリカ訛りの、たどたどしいフランス語で語られる、中年女性の旅行記。

異国でひとりぼっちで、世界からまったく相手にされない。

人と街は、冷たくもないけど優しくもない。

その断絶と絶望の中で初めてわき起こる、自由と幸福という感覚。

世界から断絶された孤独の中で、ようやくパリを愛し始めた女性のドラマ。

世界をドラマチックにまなざすことで劇的に生き始める話だった。

私にもいつか、そんな転回が、ひとつのポイントとして訪れるのだろうか。

錯覚や陶酔でなく。

 

 

今日はラーメンを茹でずに眠れる夜で、ラーメンを茹でずに眠れることが幸せだと知る夜だろう。