痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

タイムス

あるバンドの、ファンクラブに入りました。

 

 

大好きな先輩が、そのバンドのことを大好きで、なんとなく耳に残るようになったバンド。

毎日仕事の終わりに聴かされてるうちに、なんとなく自分でも借りるようになった。

 

まあ、普通に聴くけど、ファンクラブに入るほどではないバンド。

最新曲も知らない。

 

 

秋に、そのバンドのファンクラブ限定ライブツアーがあるらしい。

多分チケットの倍率は高くて、先輩は抽選要員として私を選んだと思う。

「一緒に僻地に行く?」

とだけメッセージが送られてきて、私は愚かなことに、大好きな先輩と僻地に行きたい、そればっかりで月額払ってファンクラブに入って、抽選に応募した。

 

 

先輩は同性なんだけれど、私にとってまぎれもなく「善良な人」だ。

恋とか性とかアリとかナシとか、そういうニュアンスを一切合切度外視して、大好きだと思う。

心から彼女の役に立ちたいし、何より一緒に僻地に行きたい。

絶対に行きたい。

それはロマンチックだ。

 

 

先輩が毎日、日報を書きながら、私に聴かせるために流していた曲だった。

「興味ないんですけどお」と言いながら聴いてるうち、なんとなく耳に残って、TSUTAYAでアルバムを借りた。

そのうち先輩が辞めて、私も辞めて、先輩は私の先輩じゃなくなった。

それでも彼女は私の中に、善良な人として残り続けた。

彼女の倫理ひとつひとつが私を勇気づけたし、殺伐とした満員電車でも、ふっと私を微笑ませた。

 

彼女から「一緒に僻地に行く?」とメッセージが来て、二つ返事でファンクラブに入って、行ったこともない土地のライブに応募した。

 

 

さて、私は愛をはき違えているのだろうか?

 

 

 

 

愛について悩むことが、ライフワークのように思う。

恋には悩んでいないけど、愛には常に悩んでいる。
愛って何?
まぎらわしければ、誠実さって何?
善良さって何?
他人って何?
に言い換えてもらっても構わない。

 

 

たとえば先輩に「アムウェイって知ってる?」とか言われたら、たぶん私は「知らないです!何ですか!?すごい興味あります!」と言ってしまう。

健康でない愛を簡単に信仰できる、自分のそういうところがおそろしい。信用ならない。


彼女が私にとって善良だから、私も彼女にとって善良でありたい。

私に与えられるものがあるなら、心から役に立ちたいと思う。
それは健康に愛なはずだけれど。

私は油断しているといつの間にか愛をはき違えて、しかも正しくない愛を信仰してる自分に酩酊するタイプだから、いつでも愛を(善良さを、誠実さを、他人を)おそれている。