眺めのよい部屋より
土曜の夜、あまりの予定のなさに混乱して、衝動的に国立近代美術館に行く。
大学から数駅。
衝動が冷めないまま行ける距離でありがたいな、といつも思う。
4階には「眺めのよい部屋」という小さな部屋があるのだけれど、椅子とテーブルがあるだけで、他は何もない。
美術品はもちろんないし、本も、チラシも、何もない。
閉館までの一時間くらい、眺めのよい部屋でぼーっと過ごす。
誰も来ない。
竹橋の、高層ビル群を眺めていると、
「ちっとも無機質なんかじゃないよ」と言いたくなる。
当たり前のことなんだけど、「すべての意匠には人間が介在している」ということを最近よく思う。
3Dモデラーとしてのバイトを始めてからかなあ。
ひとつの形を決めるのに、100の検討と、決断が要ること。
ものがこの形になったのは、人の意志とかセンスとかが介在して、すべてに意味と理由があること。
本当に当たり前なんだけど。
直線と直角のビルにも、同じことを思う。
カーテンウォールをこの形式にした理由とか。
エレベーターの梁に照明を仕込んだら夜光ってカッコいい、と思ってプランニングしたんだろうな、とか。
全然無機質じゃないよ。
冷たくもない。
結構、情熱的にすら思うけど。
土曜の夜なのに、ちらほら明かりがついていて、そこで働いている人の存在を感じる。
やっぱり「思いっきり人間じゃん」と思う。
眺めのよい部屋。
実際、そこまで眺めはよくない部屋。
たった4階だし。
私のマンションのほうがまだ眺めがいいんじゃないか。
でも、もし私が部屋で、「眺めのよい部屋」なんて名前をつけられたら、めちゃくちゃ嬉しいと思う。
だから私はこの部屋が好きだ。
そんなに眺めもよくない、けど他に使い道もない部屋に、誰かが「眺めのよい部屋」と名付けてくれて、ほかの誰かが眺めを見に訪れてくれたら、そんなに嬉しいことはないだろうな。
「休憩室」とかじゃなくてよかった、と思う。
私だって、誰かに名付けられたい。
羨ましいとすら思う。
「休憩」とか「談話」とか、何かをするための部屋じゃなくて、「眺めがよい」。
ただそれだけでいいと誰かがnamingしてくれたら、一生堂々と「眺めのよい部屋」としていられる気がする。
たとえたいして眺めがよくなくても。
私みたいに、することのない女の子が訪れて、何をするでもなく座って、また帰っていく。
眺め以外の、一切の情報を与えない。
それだけで部屋としての役割をまっとうできるなら。
いいなあ。
私も、眺めのよい部屋になりたい。
「眺めのよい部屋」として、誰かに名付けられたい。
意味と無意味の境界で、どっちにもふれずにいることを許されるのは、どんな気分だろう。
ふらふらと帰って、ビールを飲んで、眠る。
土曜の夜の過ごし方に不正解はないと思い至る。