善良な人
海外ドラマの「グレイズ・アナトミー」がすごく好きで、毎週観てます。
思春期からもう10年以上追っているので、わたしの言語感覚はグレイズ・アナトミーによって作られたと言ってもいいくらい。
Amazonプライムビデオでseason1から観れるので、もう全人類に観てほしいと思ってるんだけれど、地味だからか、イマイチ日本では流行らないなあ。
先々週のseason13「episode8 オペ室の幻」はとくに傑作でした。
疲れて、もう一歩も歩けなくて、それでも踏ん張らなきゃいけない局面で思い浮かべる、自分にとって「善良な人」とは誰か、という主題です。
それぞれが、不在の(手の届かなかった/過ぎ去った/失った)「善良な人」からのまなざしを想定することで、今ここに存在している自分と他者を救っていく、そういう話でした。
本当に美しい回だった。
誰でも疲労のピークを経験する。
わけがわからなくなる状態。
体は痛み、頭はぼーっとする
トンネルに閉じ込められた気分。
とにかくベッドで眠りたい。
そこからどうやって踏ん張る?
どうすれば諦めずに粘れる?
こうすれば簡単。
頭の中でゲームをすればいい。
誰かを思い浮かべる。
善良な人を。
心の支えがあれば、また踏ん張れる。
善良な人、って何でしょうね。
わたしにも「善良な人」がいます。
同性の、年上の人です。
たとえば、心の重さが体を引きずるような時。
何にもしたくなくて、何にも欲しくなくて、どこに行きたいのかもわからないような時。
そういう時に思い浮かべて、勇気がわいてくるような人。
あと一歩だけ、私の足を動かしてくれる存在。
誰もが疲れ果てていて、いるだけで心がパサパサになっていくような満員電車でもなお、思い浮かべると思わず口角が上がる。
そういう人が、私にも(もしかしたら誰にでも)いる。
いつでもその人は不在だけれど、その人に「見られてる」と思うことで背筋が伸びる。
泣かなくて済む。
「見られてる」と想定することは、実際にはこちらがその人を「まなざしている」ことなんですよね。
架空のまなざしを想定して、それをまなざすことで、背筋を伸ばす。
正しく在ろうとする。
今あるものだけじゃどうにも頑張れなくて、最善の自分じゃいられなくなった時に、不在のまなざしを借りてくる。
私たちは、まなざしの幻を見る。
不思議な作用だと思う。
不在の存在こそが、「今ここ」に存在する私を、ギリギリの場面で救っていくということ。
縋ってるわけじゃない。
「神様が見てる」と思っているわけでもない。
ただ、「かつて存在して、いまは不在のもの」、その郷愁にも似た愛着をほんの少し借りてくる。
自分の救い方であり、知恵のひとつだと思う。
誰のまなざしがなくても頑張れるほど強くはない。
でも、疲れてそのまま倒れ込んでしまうほど弱くもない。
そんな「普通」な私たちの知恵。
あまりに美しく、切実だなあと思います。
本当に傑作だった。
Amazonプライムビデオで観れます、ぜひ。