痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

「スケーエン展」メモ

 

国立西洋美術館の「スケーエン展」、田舎町の近代生活を生々しく切り取った作家たちの展覧会。

展覧会といっても小規模で、常設展のうちの2部屋をスケーエン作家特集にしたもの、という感じ。

 

スケーエンは、デンマークの北端の小さな町。

美しい海と砂浜があって、漁業が盛ん。

そしてその風景を描きたい芸術家たちが集まって、コロニーが形成されていた。

それがスケーエン派。

 

ミカエル・アンカーと、アンナ・アンカーが、やっぱりめちゃめちゃ良かった。

ミカエルは、海難の際に救援隊として駆り出される漁師たちを英雄的に捉えた、ドラマチックな絵が印象的。

アンナは、庶民の家庭における女性たちの、私的な空間での様子を捉える。

田舎町で暮らす女たちに、そこはかとないセンチメントをまとわせた絵が多い。

 

わたしはルノワールの絵を見るとボロボロ泣いてしまうキモいところがあるんだけど、何を見て泣いているかというと「生活へのまなざし」に依るところが大きい。

これはもう好みとか好みじゃないとかそういう話でなく、「倫理」だとすら思う。

 

 

ミカエルとアンナの絵にも、そのまなざしを見た。

身近な人の中に、見知った顔のふとした表情に、英雄性や気高さを見出すこと。

あるいは、朝起きて、働いて寝る、この生活の中にドラマを見出すこと。

このまなざしは、人が持つべき美徳であり倫理だと思う。

逆に言えば、このまなざしさえあれば、他には何もなくてもかまわない、その人の生は永遠に劇的でしょう。

 

たとえば、病から快復し、臥床に退屈して起き上がり始めた、小さな生命力に。

自分ではないほかの誰かのために、鮮やかな水色のドレスを縫う老女に。

針仕事を教える女と、教わる少女たちに注ぐ陽光に。

気高さと尊厳を見つけるまなざしは、絵画や芸術の枠組みを超えた、美徳である。

 

海に漕ぎ出す男の絵と、待つ女の絵。

あまりにもありふれていて、どこまでも劇的だ。

地元の漁師たちのふとした表情を描いた素描にすら、ドラマがある。

生活がある。

顔と名前を持つ個人の生。

 

何を言ったって、ここにあるのはひとりひとつの心と身体で、誰だってその一対のものだけ持って、いくつもの朝を迎えていくつもの夜をやり過ごさなければならない。

 

19世紀の田舎町に生きる漁師たちにも、21世紀の東京に暮らすわたしたちにも、イージーで楽勝な生なんか存在しないけど。

100年経ったってパンのための労働は厳然とあるし、生活のうつろいやすさも、生活のうつろいやすさに気づけないわたしたちも、変わらない。

 

世界がいかに自分に対して不誠実だって、それとはまったく無関係に、世界に対して誠実なまなざしを持ち続けること。

不条理をものともせず、目の前の生活を自分のものとして、所有し続けること。

 

シニカルでアイロニカルな態度は楽だけど、それでも、真に受け続けることに価値を見出したい。

毎日それなりにつらいから理想化はできないけど、たまに鮮烈なものがある以上、生活全部を笑うのはクソダサい。

それなりにつらい毎日の中で、不条理に迎合することなく、みみっちく必死こいて暮らす人間存在を肯定して、劇的なものだとまなざすことは、口で言うほど簡単じゃないでしょう。

ほんと、冷笑するほうが楽だよねえ。

それでも毎日、よく怒り、よく泣き、よく笑い、人間を諦めないで生きたいね。

何度似たような裏切りを受けても、そのつど新鮮に怒りたい。

新鮮に失望したい。

切実に生きたい。

人当たりなんか良くなくても、「大人な態度」で流したり忘れたりできなくても。

それがわたしにとって、たったひとつの美徳だ。