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痛ましいほど楽園

就留女のたのしい毎日

「描き続けたまえ 絵画との契約である」

毎日のこと

 

東京国立近代美術館の「endless 山田正亮の絵画」行ってきました。

たまたま大学の先生にチケットをもらったので、(もうすぐ終わるし行かなきゃもったいないなー)くらいの気持ちで行ったけれど、すごく良くて、ボロボロ泣いてしまった。

 

以下、メモです。

 

 

描き続けたまえ 絵画との契約である

 “描く”ことを自らの人生と一体化させ、美術の潮流から距離をとり、孤独の中で生涯描き続けた画家、山田正亮。ストライプの画面で知られる彼の画業を網羅した、初の本格的回顧展です。5,000点近い作品から選りすぐった主要作200点超を、初公開の制作ノート群とともにご紹介します。

   (展覧会HPより)

 

山田正亮は、ストライプの作家と言われているとおり、同じモチーフを、執拗に繰り返した。

もちろん、ストライプの色とかデザイン性に本質があるわけじゃあない。

 

「色彩のくりかえしのことは本質あるいは生である」

 「完成させないことだ というより完成は過程である」

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(展覧会図録より)

 

 

山田正亮の反復は、絶えず生成するもの、積み重なるもの、完成がなく、過程だけがあるもの、すなわち生。

「絵画との契約」は、「生活」と同義の営み。

山田正亮は、長い不遇の時代ののち、描き始めて40年後、ようやく日の目を見た画家である。

自身の制作ノートには、画家として認められないジレンマも含めて、丹念に記してある。

それでも、自分の身を削ったその断片を、ひとつひとつ積み重ねるように、同じモチーフを描くことをやめなかった。

たとえば。

「つらいことや大変なことも多いのに、あいつは執拗に生活し続けてるよなー」とは言わない。

何が果たされなくとも、あるいは果たされても、打ち切られずに続いていくのが生活だから。

営むということ。

私は、山田正亮の反復に、「営み」じみたものを感じて、ぐっと来てしまったんだと思う。

「絵画との契約」とはすなわち、反復であり、生活であり、生だったのだろうか。

わからないけど。

塗って、塗りつぶされて、何層にも色を重ねられて、そうしてできた、地層のようなストライプ。

まったく人目に触れないまま埋もれていった色もあるんだろうね。

まるで繰り返される毎日みたいに。

 

 

私がとくに好きだったのは、初期の「still life」シリーズ。

同じモチーフの静物画を7年間にわたり反復し、描いたもの。

実際のデッサンによるものではなく、「記憶の中の静物」だという。

反復される果物。反復される砂糖壺。反復される花瓶。

記憶の中の花瓶は、だんだんと口を画面へと向ける。

気づくと、花瓶の口がみんなこっちを見ている。

だんだん輪郭がぼやけて…背景との境界が曖昧になる。

そして、だんだん幾何学的な抽象画へと……。

記憶の中の静物は、時間をかけてゆっくりと抽象へ、概念へ、なっていった。

 

反復されながらも、確実にうつろうもの。

still life(静物)は、反映している。

still lifeは本当にstillか?

 

ルノワールのときにも書いたけれど、私は生活とか営みへの姿勢、まなざしがある絵がとても好き。

フラットに、人ひとりぶんの寂しさと同居しながら、理不尽に身を晒しながら。

物だって人だって、身体だって心だって、生活していく以上かならず傷はつくけど、それでも。

反復を倦厭せずに認めることは、どこまでも真摯で倫理的だと思うよ。

 

 

それから、山田正亮の制作ノートに書かれた言葉もすごくいい。

円城塔を読んでる時と近い感覚があって、言ってることはわからないけれど心地がいい。

そんな意味の空間に放り出された気がする。

絵画と契約した人間が、それと引き換えに得た言語。

合理性による理解を拒み、視覚に訴求する言語。

わからないまま、ずっと眺めていたいような魅力のある文字列。

 

「グレーの滞在は長期」

「思い切った白を塗る作業に入る 正当性の正当化をめざす」

「作品の内部にあって 終りのない能力をもつ

沈黙と対峙する (白)をくりかえし 追究する」

 

 

というわけで、東京での会期は終わってしまったんだけれど、すごく良かったので京都のも見に行きたい。

言語表現、「語ること」と相性のいい画家かもしれない。

私はやっぱり「語れるもの」が好き。