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痛ましいほど楽園

就留女のたのしい毎日

イブに寄せて

 

チョコレート屋さんでアルバイトをしていると、たまに、切実な人に出会う。

 

たとえば、

「付き合ってない人とクリスマス過ごすんですけど、これあげたら重いですかね」

って相談してくる、クールっぽい男の子とか。

 

たとえば、友達に

「こいつ明日好きな先輩にあげるんすよ〜(笑)まあ確率は低いと思うんですけど(笑)」

ってからかわれて、

「なんでそんなこと言うんだよ(笑)」

って言いながら選んでる若い男の子とか。

 

たとえば、

「お伺いしてもよろしいですか?年上の殿方に差し上げたいのですけれど、男性に人気のチョコレートはどちらでしょうか?」

と尋ねてくる品の良すぎる女性とか。

 

くらくらする。

彼らは、たぶん、必死だ。

普通に買い物をしているけど、すごく必死なはずだ。

一箱のチョコレートに何を賭けているのだろうか。

他者の心に一歩踏み出す勇気を、どれだけ乗せているのだろうか。

その人に関することなら誰かに相談せずにはいられない(デパートの販売員にですら!)ような想いとは、どれほどのものなのだろうか。

 

これは憶測でしかないけれど、彼らはしょーもない、カスみたいな言葉を使わずに恋愛をしてるんだろうな、と思う。

たとえば、「アリ」とか「ナシ」とか、「告白されればアリ」とか、「メリット」とか「デメリット」とか、「惚れたら負け」とか。

 

恋、ぜんぜん絶滅してない。

文化としての「恋」が生きている、と思う。

予防線も張らないで、他者にむきだしの身を晒す行為は、いまだに、いや多分、いつまでたっても普遍的であり続ける。

 

普遍的であってほしい。

いつの時代になっても、むきだしの自分を見せる人はまぶしくて、勇気を出すことは格好良くて、決して「負け」なんかじゃないということ。

嘘は格好悪くて、予防線はダサくて、人の足元を見ることは卑しくて、そんなものは決して優位でも、「勝ち」でもないということ。

恋が何度詠まれて、描かれて、歌われても、私にとって、誰かにとって、未知で、おどろきをもたらすものであるということ。

そういう「恋」の文化が、人を駆り立てる感情が、駆り立てられた人の切実な行為すべてが、何度歌われて陳腐化してもなお、普遍的に新しくあってほしい。

 

 

元彼の悪口が尽きない私みたいな女がこんなことを言うのはなんともおこがましいけれど、それでも必死な人を見ると、願わずにはいられない。

彼らが永遠の勝者であることを。

どうかよいクリスマスを。