「存在した、生きた、愛した」
ホスピスでボランティアをしています。
この間、とても些細だけれど、「なまなましい」と思う出来事があった。
先日のクリスマス会でのこと。
クリスマス会では、患者さん全員に手作りの小物をプレゼントしている。
その準備をしているときに、ボランティアの先輩が
「これ、毎年同じものをあげてるのよねえ」
と言った。
私は、「えっ、マジで?それってどうなん?」と思ったわけだけど、先輩は続けて
「ここで二度もクリスマスを迎える人はいないから」
と続けた。
「ああ、そうか」と妙に納得してしまった。
そうか、ここにいる人は、おそらく全員、来年のクリスマスを迎えることはないのだ。
考えれば当たり前なのだけれど、あらためてハッとしてしまった。
私には想像できなかった。
「来年の今頃、私はいない」とか、「最後のクリスマスだ」とか、そういう状況を。
22歳の私にとって、一人称の死はフィクションの世界のもので、残りのクリスマスの回数をカウントしたこともなく、カウントしてみたところで現実味のない数字だった。
しかし、ホスピスにいる人々にとって、カウントは「ゼロ」なのだ。
「生の一回性」というものは、あまりに自明すぎて、普段の生活では思考にすら上らない。
ただその時は、自明すぎるその言葉が、「まさに」、「たったの一回だ」となまなましく感じられた。
もうひとつ。
Kさんという患者さんがいる。
Kさんは涙もろくて、すぐ「綺麗ねえ」「楽しいねえ」と言って、泣いてしまう。
クリスマス会でもKさんは、ニコニコしながら、時折涙ぐみながら、写真を撮っていた。
何枚も。
これも私にとってはショッキングだったのだ。
人はなぜ写真を撮るのだろうか。
人に見せるため?
眠れない夜に見て、暇をつぶすため?
忘れた頃に見て、懐かしさに浸るため?
イベントごとでは写真を撮るもの、という習慣によるものかもしれない。
Kさんを見て、私は「写真を撮る」ことの意味がわからなくなってしまったのだ。
「数ヶ月後に自分はもういない、と知っている人間が、その日見たものを記録する」、その時の気持ちというのは、どうしたって想像しがたい。
でも、もし私なら、何かを書いたり、撮ったりするときに、「これは数ヶ月後に"亡くなった人の最後の数ヶ月の記録"になる」ということを忘れて何かを残すことはできないだろう、と思うのだ。
もちろん、Kさんがどういう意思のもとで写真を撮っていたかなんてわからない。
それでも、少なくとも私は、その場において、「写真を撮る」という日常的な行為の中に、死を見据えた存在が何かを「残そうとする」意志を見て、ショックを受けたのだ。
今日、授業でリヒターやウォーホルの写真論を聞いた。
そこでなんとなく思ったのは、「Kさんの写真」にショックを受けたのは、それが写真の本質に迫ったものだったからかもしれないということ。
リヒターやウォーホルは、アウシュビッツや処刑場、事故現場の写真を撮った。
リヒターは、ピントのずれた写真もあえてそのままコレクションし、模写した。
なぜ?
ピントのずれた写真。
写真の腕、出来、鮮明さ。
写真が与える「ショッキングな印象」は、そういったものとまったく関係なく存在する。
それは、いかなる場面であろうと、「その場にシャッターを押した人がいた」という事実から来る感情であり、情緒だ。
そして、その出来事(アウシュビッツや処刑、事故)が起こったという事実、その出来事の一回性、唯一性、逆行不可能性、決して取り返しえないということ。
これらが写真の出来や鮮明さに関わらず、絶対に誰にも変えられないということ、目撃されたということ、記録されたということが、写真を見た人にショッキングな印象を与えるのではないか。
その時間、その出来事の一回性。
唯一であり、同じことは二度として起こらないし、また起こったことをなかったことにもできない。
これまでの、あるいはこれからの世界の歴史がいかに長く続いて、一回の出来事が無限小になり、起こったことが「ほぼ無」と同様といえるくらいに小さくなっても、「無」と「ほぼ無」の間には無限の距離がある。
これと同じように、些細なことでも出来事が「起こった」、ある人が「存在した」ということを、世界は未来永劫、考慮に入れて存在し続けなければいけない。
そのおごそかさ、自明でありながらハッとするような一回性の奇妙さ。
この事実は、写真が不鮮明であればあるほど対照的に、明確に浮き上がってくる。
これが写真の持つひとつの性質である。
このことを踏まえて、Kさんの撮った写真のことを考える。
やはりKさんの意思がどうであっても、Kさんの写真は、
「ある人が、自分が死すべき存在であると受け入れた上で、いかなる形で世界に存在し、生活したか。何を見たか、どういう見方で世界を見てきたか、何に心を動かされたのか、ということを残す行為」
であることに違いない、と思った。
何か息が詰まるような思いがした。
圧倒的な人類の連続性からすれば無限小ともいえるひとりの人間が、その死の間際に何かを残そうとする行為。
「たった一回」「ほんの一瞬」の生の中で、世界と自分の関係性を焼き付ける行為。
それが「写真を撮る」という日常的な所作に還元されていることにハッとする。
これが、ホスピスでの日常、生活の中に厳然として存在する「なまなましさ」であるように思う。
タイトルはウラジミール・ジャンケレヴィッチ「死」の最終章から。
ジャンケレヴィッチの中でもとくに美しい章です。