「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」メモ
8月までやってたルノワール展、3回行ったので「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」の印象メモを。
・モンマルトルとパリという文脈(労働者と芸術家と富裕層)
まず、コンテクストとして、19世紀のパリという場所。革命後、貴族文化が市民にも開放され、文化が花開いた時代、「欲望と消費」の華やかさとエネルギーによって、パリがもっとも美しかった瞬間。
19世紀のモンマルトルという場所。労働者のバラックが並び、人々が貧しく、たくましく生活していた地域。
あるいは、新時代の芸術を目指す芸術家たちが暮らしていた地域。
芸術という嗜好品(贅沢品、なくても生活できるもの)のために衣食住(生活に必要なもの)を削っていた場所。
以下はヘミングウェイが若く、貧しかった頃のパリでの暮らし・青春の回想である「移動祝祭日」の最初と最後。
もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
パリには決して終わりがなく、そこで暮らした人の思い出は、それぞれに、他のだれの思い出ともちがう。私たちがだれであろうと、パリがどう変わろうと、そこにたどり着くのがどんなに難しかろうと、もしくは容易だろうと、私たちはいつもパリに帰った。パリは常にそれに値する街だったし、こちらが何をそこにもたらそうとも、必ずその見返りを与えてくれた。が、ともかくこれが、その昔、私たちがごく貧しく、ごく幸せだった頃のパリの物語である。
貧しい芸術家たちにとってのパリは華やかで豊かなだけの場所ではなかったけれど、新しい芸術へ向かうエネルギーが沸騰していた時代、モンマルトルはその中心だった。
19世紀、パリの消費のエネルギー=「買うこと、食べること、身につけること」への欲望の高まりと、モンマルトルに集まっていた「買うこと、食べること、身につけること」を度外視した芸術へのエネルギー、このふたつのコンテクストが「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」の画面から流れ込んできて、わたしはこの絵を見るたびに胸がつまって、どうしようもなくなってしまう。
・日常を切り取るということ
この絵は、絵画というより、ある地点(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)の「幸福と祝祭の記憶」として立ち上ったイメージのように思える。
きっと労働者階級の暮らしは楽じゃなかったし、衣食住を削って絵を描くのだって苦しい日がある。
パリで華やかに暮らすのだって楽しいだけじゃないし、そもそもいつの時代にも楽しいだけの生なんて存在しない。
それでもこの画面が切り取るのは、パリ、モンマルトルの、ムーラン・ド・ラ・ギャレットという場所がもっとも明るく美しかった瞬間で、モンマルトルという場所の社会的問題、メッセージ性は存在しない。
むせ返るほどの多幸感。
19世紀パリ、美しく貧しく、華やかでたくましい時代がたしかに存在していたということに、幸福と憧憬を強く感じるけれど、幸福感も憧憬も、行き過ぎると苦しい。
「まさに移動祝祭日だ」と思う。
「移動祝祭日」なんていう造語に、すとんと納得してしまう。
そして、溢れ出る多幸感とはうらはらに、絵画から離れれば霧散してしまうような儚さが同時に存在している。
「うつろいやすい日常のその一瞬」を切り取るということは、決してムーラン・ド・ラ・ギャレットの地が記憶する幸福感、パリがもっとも美しかった瞬間の歓びをわたしが家まで持って帰ることはできないということ。
すぐに思い出せなくなってしまう、と思った。
この絵から目を離した瞬間に、わたしは今生きているこの時、この場所に引き戻されて、19世紀パリはまた遠くの憧憬となってしまうだろう、という予感がした。
それはもちろん仕方のないことで、パリの富裕層だって、芸術家だって、わたしだって、格好つけても所帯じみなきゃ生活できないし、今生きている日常は切り取られることなく苦しいことも込み込みで続いていくし。
それでも、たった一晩、この絵の前で眠れたらなあ。
たぶん、それだけでパリはわたしの移動祝祭日になって、どこに行ってもついてきてくれる。
そう思いながら、今も19世紀のモンマルトルを夢見ている。