生活と労働と夜景
工場夜景がすごく好き、という話。
東京でも、郊外でも、夜に工業地帯を走ればどこでも見られる。
「工場」「労働」という、華やかさからかけ離れたモノたちは、夜のバイパスにあらわれ出るとき、あまりに美しい。
そもそも夜景というのは不思議なものだ。
「綺麗なものを作ろう」として作られたわけではない、ただの生活の灯りの集合だ。
エンターテイメントとして作られたわけでもなく、かといって自然が作った風景でもない。
人々がどこかで生活したり、移動したり、労働したりしている状態を、"外側から俯瞰したとき"に初めて見られる風景なのだ。
「夜景は誰かの残業の灯りなんだよ」と皮肉っぽく言われるけれど、「実際に残業している人は絶対に夜景を認識できない」というのはたしかに面白い。
夜景の美しさと、夜景を構成している人々の生活の泥臭さは、まさにうらはらだ。
夜景のなかでも工場夜景は、よりいっそう夜景のもつ「生活と労働」という性格を想起させる。
鋼鉄、機械、ベルトコンベア、重機、単純作業、無機質。
「工場」という場所から浮かぶイメージは、こんな感じ。
工場夜景は、(普通の夜景以上に)「日々の労働」という営みの泥臭さ・単調さと、景色の美しさのコントラストを強調する。
これは、工場労働がどう、という話ではない。
工場夜景は「労働と生産のための灯り」であり、わたしたちはそれを見たときに「こんな時間まで誰かがここで働いているんだ」というふうに、(普通の夜景を見たとき以上に)「労働する個」を想起する、ということだ。
労働と生産のための灯りは、綺麗であるほどなんだか切ない。
ところで、わたしは「生活(=労働、睡眠、食事)」というものは何より難しくて、とても尊い、と思っている。
ドラマのない毎日でも、当たり前のように維持するのはなかなか難しい。
わたしたちはすぐに躓く。
社会において役割を担い、全うし続けることは簡単じゃない。
脱落したり怪我したりすることが死に直結しているランニングマシンに乗ってるみたいだ、と思う。
わたしが工場夜景を見て切なくなるのは、綺麗であればあるほど泣きそうになるのは、わたしのなかで工場夜景の美しさと「生活と労働」の尊さが結びつくからかもしれない。
工場の"内側"にいる人間は工場夜景の美しさを認識できない。
それと同じように、「生活と労働」は多くの当人たちにとって、地味で平坦なものである。
自分の生活は、夜景として観測できない。
しかし、当人からは絶対に認識できない部分で、「生活と労働」の尊さ・美しさはたしかに存在している。
工場夜景の美しさは、灯りそのものの造形美だけではない。
「労働する個」の泥臭い生活の営みから発される美しさがそこにたしかにある、と思う。
夜景の灯りのひとつひとつが誰かの生活で、そのもとにいる全ての人が何かモチベーションを持って、あるいは惰性で、生活を維持したり、あるいは維持できなかったりしている。
その「生活と労働」の存在の仕方に貴賎はなく、自分では認識できないけれど美しいものとして、たしかにあるのだ。
今握っているスマートフォンの灯りも、どこかの夜景かもしれない。