明晰に疲れているということ
わけもなく疲れている。
ここ数日無気力で、夕飯を食べたら気を失うように眠っている。
今日は禁煙も失敗するし、バイトも早退してしまった。
部屋もゴミ溜めのようだし、あーあ、もうだめ。おしまい。解散。
という感じ。
今までは「夏大好き!冬が来ると思うと落ち込む!」ってタイプの人間だったけど、今年はちがう。
秋でも冬でもなんでもいいから、さっさと来て、さっさと終わってほしい。
とにかくこの先1年がわたしのどん底なのだと思う。
「もう一年遊べてサイコー」とは言い切れない、漠然とした将来不安。
一般的な「自立」のコースからは外れてしまった。
目指すものがない。
属するところがない。
有名な大学に入って、4年間楽しく過ごして、最後にこのザマ。
わたしは「かわいそうな人」なのかもしれない。
けっきょく、何をしててもそういう気持ちがつきまとう。
きっと来年就活が終わるまで、このぬるい絶望とともにゆるゆると疲れながら過ごすのでしょう。
わたしの「疲れ」の正体は、この属するところが見つからない「ぬるい絶望」だと思う。
鷲田清一によれば、疲れとは「じぶんがそれに憑かれ、やがてそれじがじぶん自身になるはずのところのものとくい違っていること、つまり自己自身との不一致もしくはずれ」だという。
つまり、自分がいずれたどり着くべき場所・信じるべきものと、今いる場所がずれてしまっている状態が疲れとなる。
鷲田は「疲れているひと」の反対は、「深く眠っているひと」だという。
「この意味の空間、観念や象徴の家にうまく着生した者、そこにうまく住みついた者こそが、うまくだれかたりえたものだということになる。その脆さ、危うさに脅かされることなく<わたし>として、あるいは<わたし>という囲いのなかで、たしかに生きている人というのは、社会的に承認されたある意味の体系により深く憑かれたひとだということになる。」
社会の中で役割や機能を担い、何者かになれた人。
自分が「意味の空間」の中で「うまくだれかたりえ」ていると疑いもなく思えている人。
それが、「深く眠っているひと」だ。
疲れというのは、その深い眠りから覚めたときに感じられる。
今いる場所でうまく機能を担えていないという感覚。
どこであればわたしが「わたしたりえる」のかわからなくて、立ちゆかない感覚。
本来たどり着くべき場所と今いる場所が乖離しているような感覚。
なにかを信じて、憑かれて、それに夢中になって「これがわたしのやるべきことだ」と思えればどんなにいいかと思う。
「疲れのなかで、わたしはじぶんの重さを感じる。からだが重い、からだがだるい。まるで存在が粘度を増したかのよう。なにかに乗り切ることができない。なにかをやりきることができない。なにかにうまく憑かれることができぬとき、人は疲れおぼえる。なにもやる気がしない。」
しかし鷲田は、「深く眠っているひと」より「疲れているひと」のほうが明晰であると言う。
「わたしが同一のだれかであるというのは、なにかになるというその生成の過程のことではなく、なったその完了形である。その完了へといたる途上で、ひとはなにかになりかかったり、なにかになりそこなったりする。その揺れ、その生成の途上が、目が醒めているという状態である。目醒めているというのは、思考や想像力がはたらいているということである。思考や想像力はいまをいまここにないものに、現在を不在に結びつける。目醒めているときにこそ、ひとはそうでありえたかもしれないのに一度もそうでなかったものに深く触れるのである。存在しそこねたもの、あらかじめ挫けたもの、砕かれたもの、つまりは死産したもの、死んで生まれてきたものに、まなざしを届けるのである。悔恨のように、あったものをなかったらと悔いるのではなく、郷愁のように、あったものを過剰にあらせるのでもなく、あることのなかったものをありえたものとして、それをずっと引きずっている感覚。そこに疲れのひとつの形がある。
憑かれているひとより、疲れているひとのほうが、したがって明晰なのである。不可能なこと、どうにもならないことを、疲れのなかでひとはより深く知るのである。だからこそ、よく憑かれていること、つまりだれかとして<だれかになりきって>たしかに生きているときこそ、ひとはぐっすり眠っていると言ったのである。<生>とはひとつの閉塞であり、ありえたかもしれない別の可能性を閉塞することである。<生>がもし開放をこそこととするのだとすれば、疲れているとき、そしてなによりもなりきれないときこそ、ひとはより厚く生きているということになる。」
(鷲田清一「皮膚へ/傷つきやすさについて」思潮社,1999)
最後の文章、すごく好きです。
毎日ぐったりしている。
何もやる気が起きない。
わたしはもっとダイナミックな人だった気がするのに。
朝起きて、一日が始まることに疲れる。
そして、疲れていることに傷つく。
はやく季節が流れてほしいと願う。
でも、今がどん底で体が重いのは、わたしがゴミクズだからじゃなくて、「目醒めている」からだと思ったっていいらしい。
疲れてくたくたになりながら、かつてなりそこなった何者か、なりたかったかもしれない何者か、そういうものに想いを馳せることはちっとも悪くないっぽい。
何者にもなりきれない、何かを深く信じて突き進めないわたしを、なりきれないからこそ「厚く生きている」と言える言語だってあるのだ。
わたしのこの日々は「何かになりきれない・意味にうまく憑かれることのできない人が自己を生成している途上の、意志と心のずれ」という現象でしかないのだとすると、明日もちゃんと息を吸って生きていくしかない、と思う。
「前を向く」ことも「何かを信じる」ことも「地に足をつける」ことも、今のわたしにはむずかしいけれど、明日もどうにか存在しなければならない。
深く息を吸って、またねむる。
溺れるように生きてゆくしかないのでしょう。