ホスピスボランティアのこと
ホスピスでボランティアをしてます。
東京のはずれの、キリスト教系の病院です。
お風呂上がりの患者さんの髪を乾かしたり、お茶とおやつを配ったり、洗い物をしたり洗濯物をたたんだり。
今は3ヶ月め。
ここで仕事を教えてくれる先輩ボランティアのおばあちゃんがいる。
たぶん80代くらい、すっごく元気。
自転車で40分かけて来てるらしい。
この人がすっごく良くしてくれて、なんというか、クリスチャンの慈悲深さを感じる。
たとえば、
「若いのにえらいわね」と、いつもわたしに敬意を持って接してくれる。
(わたしは人のためになりたいとか無償の愛を捧げたいなんて考えたこともない人間なんです、と恐縮してしまう)
「あなたがいずれ自分のやりたいことを見つけて、望む仕事に就けるよう、たまに神様にお祈りしてるのよ」と言ってくれる。
(「あなたのためを思って」と就職についてお説教してくる人間は多いけど、こういう形で「わたしのためを思って」くれる人間ははじめて。すごく救われる)
「あなたに読んでほしい本を見つけたの」と、本をくれる。
新品の、星野富弘さんの自伝だった。
(なんでここまで良くしてくれるんだろう、と、やっぱり恐縮してしまった)
(クリスチャンの人がみんなこうだとは思わないけど)こんな人には会ったことがないので、毎回びっくり。
前回のブログに書いたけれど、「役に立つ/立たない」を尺度にした機能性志向の現代社会において、こういう「純粋な好意」って、本当に珍しい。
わたしは(ボランティアなので)何の権限もなくて、簡単な作業しかできない。
そんなわたしを、「役に立つ/立たない」以外の尺度で見て、肯定してくれる人がいる。
これってほんとに、これだけで生きていけるくらいすごいことだなあ、と思います。
そもそも、ボランティア先の病院自体が
「人間を機能や目的や役割から解放して、生きてることそれ自体をフラットに肯定する」
場所だなあ、と感じます。
わたしがボランティアを始めたきっかけは、
「体の自由や生活の選択肢を奪われてもなお残る、人間それ自体の尊厳って何?そんなものあるの?」
と疑問を抱いたからなんです。
でもこの考え方自体、機能性志向に毒されてますよね。
「何か役に立たないと価値がない」
「自分でいろんなことを選んで、生活できないと生きる意味がない」
みたいな。
ボランティア先の病院は、ホスピスということもあり、職員さんも特別穏やかです。
職員にはクリスチャンは(たぶん)ほとんどいないんだけど、
「何もできなくても、その人の存在を肯定する」
ということが自然にできている。
就活で「自分がいかに役に立つかを社会に向けて表明できなければ価値はないのと同じ」と思って苦しく過ごしていたわたしからすると、ほんとうに珍しい場所だなと思います。
ふだんはアルバイトや就活をして、「自分の価値を表明してお金を稼いで生活する」というミッションの中で生きているわたしにとって、この病院はすこしだけ息のしやすい場所になりつつあります。