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痛ましいほど楽園

就留女のたのしい毎日

納得したいこと

「わたしを知ってもらう上でまず語りたいこと」は、大学での研究のこと。

実際に「こんなことを勉強してるんだ」なんて人に話すことはほとんどないので、だからこそブログに書きたい。

大学では文化学を専攻しています。研究のテーマは「死」と「語りえないもの」について。人に言うと「なんかヘビーだね」と引かれがち。

原点は、高校1年生のとき、同級生を亡くしたこと。さえちゃん(仮)はクラスのギャルで、わたしはとくに絡みのない女の子だった。さえちゃんは事故に遭ってから1週間もちこたえたけれど、だめだった。その1週間の間に、わたしたち35人のクラスメートは3000羽の鶴を折った。千羽鶴×3セットだ。国語の教材は宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」だったけれど、国語の先生は「実際に同級生を亡くした君たちに向かって、架空の物語をつかって命について教えることはできない。それはあまりに身のほど知らずだ」と言って授業を中断した。

これら一連の体験のなかで、わたしはいくつかの納得できない思いをした。

たとえば、死の理不尽さ。さえちゃんの時は15歳で止まっているけれど、わたしはいつの間にか22歳だ。そんなの当たり前といえば当たり前だけど、このことを考えるたび「おかしいでしょ!理不尽だ!」と思う。人は、他者の死に納得できる日が来るのか。

たとえば、死者を語ること。さえちゃんのお葬式で、みんながさえちゃんを褒め称えた。「さえちゃんは誰にでも優しくて、おしゃれで、真面目なところもあって、みんなと仲良くて、ほんとうにいい子だった」みたいな。ほんとにそうか?と思った。さえちゃんだって歳相応にグループを形成して、イマイチな子をハブったりしてたよ。ギャルのわりにイモくてちょっとダサかった。ファストフード店で騒いで追い出されたり、勉強が嫌いで数学の赤点取ったりしてた。みんなと仲良いなんてことも別になかった。嘘じゃん、なんでそんなありきたりで本当じゃないこと言うの、と思った。わたしはさえちゃんのことを「優しくておしゃれでいい子」と思ったことはなかったけど、それでもさえちゃんに生きててほしかった。別にさえちゃんが「優しくておしゃれでいい子」だから生きててほしかったんじゃないのに。それでも、おそろしいことに、繰り返し聞かされると、だんだん「優しくておしゃれでいい子」なさえちゃんのことを「大好き」だった気になってしまう。これはあまりにおそろしい。ちがうちがう、わたしはさえちゃんがちょいダサでうるさいギャルなことを知ってる。別に大好きってほど仲良くもなかった。でも、生きててほしかった。さえちゃんの夢見た朝は泣きながら起きた。死ぬなんて理不尽だと思う。こういうなまなましい感情を、ありきたりで耳障りのいい言葉に上書きされないように必死だ。わたしはさえちゃんが「優しくておしゃれでいい子」なんかじゃなかったことをずっと覚えていたい。もし自分が死んだ時、こんなふうにありきたりな言葉によってありきたりな「惜しい人」像に当てはめられたら、と思うとゾッとする。ほんとうにこわい。でも死人に口なしだ。死者を語る、ということ。人の「唯一無二」さ、かけがえのなさを語ること。真に誠実な言葉とは何か。

たとえば、国語教師が授業を中断したこと。「命の大切さ」を生きた明証性によって「真に受けた」生徒に対して何も語れなくなってしまったこと。わたしが今でも「言語的コミュニケーションを断念する」ことについて考えているのは、この「フランドン農学校の豚事件」がきっかけだったように思う。「語りえないもの」を語りえないからといって語らないのは、どうなの?という話。「語りえないもの」はたしかにある、すべてを語れると思うのはクソバカ、言葉なんて何も保証してくれない、言葉の不確かさ、内的な情態と言語的コミュニケーションの断絶、そういった言語の不可能性を承知したうえで、言語的コミュニケーションを諦めない姿勢にこそ「誠実さ」は見いだせるんじゃん?というのがわたしのベースにあるのだ。

これらがわたしの「納得したいこと」。

「納得はすべてに優先する」ってジョジョ7部でジャイロが言ってたけど、ほんとにそう。知りたいし、言語化したい。言語を諦めるのは、人間存在の意義の終末。そして、今の大学、今の学部、コース、教授を見つけて、「ここに答えがあるかもしれない」と思ってほんとうにここまで来た。

答えは見つかっていないし、大学にいるうちに「こういうことに答えは見つかりえない」ということもわかってきたけれど、それでも研究は楽しい。「やりたいことをやっている」という感覚がたしかにある。

面接では「それが何の役に立つの?」とか、「結局、答えは何なの?」とか、「言葉と内面に必ず断絶があるというなら、この面接は何なの?」とか、言われる。そのたびに「くっそー、お前みたいな奴がいるからこの世から戦争はなくならねーんだ」と思いながらやり過ごしている。すべてに答えがあると思ってるクソバカ、「語りえないもの」の存在を考えもしないクソバカ、あーー!戦争だ!という気持ち。わかりあえなくても、殴れば痛みは平等だからね。

さえちゃんが「優しくておしゃれでいい子」じゃなくても生きててほしかったのと同じように、何の役に立たないとしてもわたしにとっては何年もかけて守ってきた「納得したいこと」なんだけどな。

あー、負けたくないな。