痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

誰かに会いたいのに誰にも会いたくない日々が続いてる。

みんな優しい、と思う。

蔑ろにする人とは距離を置くし、好きな人にしか会いに行かないから当たり前なんだけど、みんな優しい。

でもみんな嫌いだと思う。

こんなに寂しいのに誰にも会いたくない。

誰かに会いたいのに友達みんなの顔を1回ずつ思い浮かべては「みんな違う」と思う。

 

人に優しくされたい、と思うけど、みんな優しくしてくれるでしょ、と言われそうだから誰にも言えない。

もっと何かが欲しいわけじゃなくて、ただ、なんか、わたしの知らないところで愛し続けるみたいに優しくして。

 

 

ずっと何かに怒ってる。

敵はいない。

 

誰も彼も優しいのに人に優しくできない自分が不思議だ。

ちっとも不幸じゃないのに世界一不幸、みたいな気持ちになる。

 

誰もわたしを不幸にできないのが不幸。

あったはずの愛とか信頼とかが裏切られたときに生まれるのが不幸だから。

みんな優しいけど、誰もわたしを不幸にはできない。

不幸せの犯人がほしい。

未来永劫呪える相手がほしい。

ごめんね、みんな優しいのに。

 

 

 

 

フランスの人間国宝展

「フランスの人間国宝」展に行きました。

日用品を買うこと、所有すること、そのために働くことについて。

 

フランスの人間国宝(メートル・ダール)は、日本の人間国宝制度を参考に、1994年に作られたらしい。

展覧会では15人の作家の手工芸品を展示していた。

 

羽根細工とか、ガラス工芸とか、鑑賞品寄りの工芸品も精巧で素敵だったけれど、私がとくに気に入ったのは日用品のほう。

傘とか、扇とか、鞄とか、眼鏡とか。

 

もしこのうちひとつでも持つことができたら、とか、プラスチックのレプリカでもいいからミュージアムグッズとして売ってくれないかな、とか、とにかく「所有できたら」という想像ばかりしてしまった。

「これが買いたい」とか、「私のものにしたい」とかって、美術館や博物館ではあんまり感じない類の欲望だと思う。

でも展示されているのが日用品になった途端、「欲しく」なってしまうのは少し俗っぽくて、庶民らしいこころの動きだなと思っておかしかった。

 

おばさんたちが

「素敵ねえ」

とか

「こんなの持ってたら、葬式の時とかにパッと開いて……」

とか話してたのも良かった。

普段は、美術館でおばさんたちが連れ立って喋っていると「うるせえな」と思うんだけど、今回ばかりは「そうだよねえ」と思ってしまった。

人間国宝の作った最高の扇子が恭しく展示されてたら、そりゃ「こんなの持ってたら」って考えたくなっちゃうよね。

 

ところで、私はアーツ・アンド・クラフツ運動がすごく好きだ。

正確には好きというより必要だと思う。

(アーツ・アンド・クラフツ運動はすごく簡単に言うと、19世紀末に、産業革命によって粗悪な工業製品があふれた世の中で、「職人による手工芸品を見直そう、生活の中にこそ芸術はあるべきだもの」という動きです)

この「生活と芸術の一体化」、蔑ろにしがちである。

だって、われわれ若者は本当にお金がない(大きく括るのは良くないかもしれないけれど)。

それに、傘は盗まれるし、食器は割れるし、眼鏡も寝起きに踏んづけたらおしまいだし。

自慢する相手もいないし、いたとしてもどうせその人だって私と同じくらいお金がない。

美術館で絵は観るけれど、鑑賞と所有はまた別の話。

1000円で観られる美術館の絵が、私の生活の中で精一杯の「芸術」だ。

食器も、眼鏡も、傘も、安くて実用的なものはたくさんある。

壊れても失くしても諦めのつく、代わりのきくものを持つのが、身の丈に合っている。

最高の物に見合った「ていねいな暮らし」はまだできない。

「時計なんかiPhoneでいいじゃん」

「傘なんかどうせなくなるんだからビニ傘が合理的だよ」

それはたしかにそうなのだ。

事実、そう。

 

それでも、それでももし、「最高のひとつ」を持つことができたなら、と想像することを私たちはやめられない。

もしも毎日目にする日用品のうち、最高のものを生涯で一度でも手に入れることができたら。

一生その日のことを忘れないだろう。

生活の中で使うたび、何度でも新鮮に、それを手に入れた時のこころの震えを思い出すだろう。

そういう「最高のひとつ」をいつか手に入れるために人は働くのだ、と言われたら、納得しちゃうと思う。

安くて実用的なものがたくさんある世の中で、それでも私はいつか手に入れる「最高のひとつ」のために働きたい。

合理的じゃないけれどこころを震わせる「芸術」を、生活の中で所有したい。

 

最近はお金がなくて気持ちまでひもじい。

人間国宝の手工芸品じゃなくても、もっとアベイラブルな「最高のひとつ」は日々生み出されていて、しかしそれすらちっとも手に入れられない。

リボ払いの返済のためにバイトする日々とか、卒業したら待ち構えてる奨学金の返済が私の現実であり、生活なんだけれど。

それでも想像することだけは止めちゃいけないな。

「最高のひとつ」を所有したいこころの動きを「見栄をお金で買ってるだけ」みたいな言い方は死んでもしたくない。

今はとりあえずビニール傘。

歪んだ眼鏡のつるに輪ゴムを巻いてすべり止めにしてる日々。

これが私の身の丈、今はまだ。

でもいつか。

 

 

彼のような彼女と

 

三連休のこと。

 

大好きな先輩と関西に行った。

先輩の好きなアーティストのライブの付き添い、みたいな感じで 。

私自身はすごくファンというわけでもないんだけれど、前から3列目のチケットを当てちゃって、ラッキーガールなのかも、と思った。

(実は先々週に四国のライブにも行ったのだけれど、それも前から2列目だった)

私は知らない曲もあるくらいだから3列目なんて畏れ多い、上手くノれなかったら嫌だな、と思ってたけれど、先輩が楽しそうだったから当ててよかった。それが全て。

 

ライブの後お酒を飲んでたら急に生活がつらくなってきて、

「毎日他人に蔑ろにされる生活が耐えられない、悪い人はいないけれど失礼な人はいっぱいいる」

とワアワア泣いて、先輩が取ってくれたちょっと良いホテルの広いベッドでそのまま寝て、次の日は目が腫れすぎて一重になった。

 

私にとって善良じゃない人の愚痴を言うために、私にとって善良な先輩との時間を使う羽目になった。

先輩を困らせることに比べたら、失礼で善良じゃない人に嫌われたり気を遣われることなんてまったくどうでもいいのに。

毎日我慢してニコニコしてたけど馬鹿馬鹿しくなったので、週明けにでも辞める覚悟で業務改善提案をしようと決めた。

 

ライブのMCで、ボーカルが何かの拍子に「僕も毎日つらいけど」って言ったのがずっと頭に残っている。

つらいんですよね〜、って感じじゃなくて、もっとさらっとした、「当たり前のようにつらい」ってニュアンスだった。

こんなに顔がよくて、お金があって、歌が上手くて、好きな人に好かれて、好きな仕事でご飯が食べられてる人でも、人生がつらいんだ。

MCでぽろっと口に出るくらい、当たり前のことなんだ。

お金もなくて仕事もつらくて顔も良くないし好きな人にも好かれない私がつらいのは、なんかこう、不幸でも何でもなく、当たり前中の当たり前なんだ、そりゃつらいわ、と思った。

つらいことが定義であるくらい、人生は当然のようにつらくて、珍しくも不幸でも何でもなく、私もあなたもつらい。

この世には世紀末のような悪人は滅多にいないし、狂人のような悪意を持って接してくる人もいない。

それでも失礼な人はたくさんいるし、好意的なことはイコール善良なことではない。

全部当たり前のこと。

当たり前だからといって苦しみが減るわけでもないけれど、そういうふう世界のあり方と自分のあり方をすり寄せて行かなきゃなあ、月曜日からも。

平日を生きなきゃなあ、私たち。

という気持ち。

 

淡々とつらがるのも、ドラマチックに苦しむのも、どっちでも、楽な方を、その日の気分で選ぼうかな。

思想もないし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇宙の中で良いことを決意する時に

 

先月、1年半やっていたボランティアを辞めた。

何だって始めるより終わらせることの方が難しい。

 

たまに、亡くなった患者さんの顔を、彼らの描いた絵を、詠んだ短歌を、撮った写真を思い出して眠れなくなる夜がある。

でもそれはちっとも美しい感傷じゃないし、ナイーブさでも何でもないと知っている。

私はあくまで他人として、部外者として、ただ彼らが生きていて、絵を描いたり歌を歌ったりして暮らしているのを見ていただけなのだから。

 

人に親切にしたいとかそんな気持ちで始めたわけじゃなかった。

ただ知りたかったんだと思う。

どんな境遇にあっても、何ができてもできなくても、人がすべて他者にとって特別で、代替不可能であること。

たとえ何にもならなくても、意味があってもなくても、人が絵を描いたり写真を撮ったりする心の動きの中に、確実に此在性(シンプルにいのちと言い換えてたっていい)があること。

一週間あれば花は枯れること(ボランティア先にはいたるところに季節の花が飾ってあって、毎週誰かが交換していた)、人は死ぬこと、人生は反復じゃないこと。

そういうことを、人に何かを与えようとする中で、私自身が与えられたかった。

 

思えば去年は、就職して、社員Aとしてできることできないことで割り振られたり交換されたりして、そのために泣いたり怒ったりうんざりしたり、毎日化粧して電車に乗ったりするのが耐え難く思えて、モラトリアムを延長したんだった。

(書き出すとひどく幼稚に見えるけど、切実なこころだった)

今はわりと(やっと?)、そういうのもやるしかないね、という気持ちでいる。

 

悪い人はいないけどちょっと失礼な人はたくさんいる。

雨の日の満員電車とか、風邪をひいてても関係なくやってくる平日とか、嫌われるのと同じくらいナメられるのが嫌だとか、そういうことに心を割く中で、思い出したりするだろうか。

覚えた歌のこと(60年くらい前の歌や、聖歌をやたら覚えてしまった)、水を替えた花のこと、私の人生から去っていった人や場所のこと。

生きることは本質的には反復じゃない(と思いたい)けど、不在のもの、かつてあったものたちから勇気をもらわないと歩くのが辛い程度には反復だ。

 

明日はレディースデーだから帰りに映画を観に行こう、ヤッター、がんばろう、みたいな、それくらいの単純さで生きていける日と、そうじゃない日があって、そういう日をやり過ごすための記憶は、やっぱり多い方がいいと思う。

 

 

明日はレディースデーだから、帰りに「アトミック・ブロンド」を観に行こう。

単純な、だけど切実なこころで生きていたいね。

 

 

 

 

 

もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?

並行する世界の僕は

どこらへんで暮らしてるのかな

広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

 

神の手の中にあるのなら

その時々にできることは

宇宙の中で良いことを決意するくらい

 

(流動体について/小沢健二

 

500キロカロリーのメランコリー

昨日、まあまあ酔っ払って、寂しくて仕方ない中書いたブログ(の下書きに残ってたやつ)です。

 

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少し酔って、寂しくて気が狂いそうな夜に、ラーメンを茹でる。

やめたほうがいいかな、と5分くらい悩んだけど、どうせこんな夜のために買ったラーメンだ。

ちょうど明日で期限も切れる。

「気が狂いそうな夜のためのラーメン」、期限ギリギリの今日まで、出番がなかったことのほうが驚き。

534カロリー。うるせえ。

 

インスタントに欲求を満たしたい、そのためのラーメンなので、すぐに食べられるように扇風機で冷やす。

明日は多分、胃もたれで目を覚ます。

 

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ひとつの記事にもなりきらない、断片的な寂しさだけれど、消すとまた別の寂しさが湧いてくるんだろう。
こういう、寂しい夜の下書きが、ブログにもTwitterにもたくさん残っている。

自嘲的な気持ち、暴力的な気持ち、許さないという気持ち、「エモい」気持ち。

いろんな激情を書いては、すべて消すこともできず、「下書きに保存」してしまう。

それってとっても卑屈だ。
誰にも知られなかった、死産の孤独として、積もっていく。
知られずに済んでよかったとも思うし、こういう半端な理性こそが私をひとりぼっちにしているのでは、とも思う。

 

文章にもなりきらない半端な寂しさだけど、深夜1時にひとりでラーメンを茹でた昨日の私を見捨てたくないな、となんとなく思った。

 

パリ、ジュテーム」の中の「14区」という短編を思い出す。

7分足らずのドラマだ。

アメリカ訛りの、たどたどしいフランス語で語られる、中年女性の旅行記。

異国でひとりぼっちで、世界からまったく相手にされない。

人と街は、冷たくもないけど優しくもない。

その断絶と絶望の中で初めてわき起こる、自由と幸福という感覚。

世界から断絶された孤独の中で、ようやくパリを愛し始めた女性のドラマ。

世界をドラマチックにまなざすことで劇的に生き始める話だった。

私にもいつか、そんな転回が、ひとつのポイントとして訪れるのだろうか。

錯覚や陶酔でなく。

 

 

今日はラーメンを茹でずに眠れる夜で、ラーメンを茹でずに眠れることが幸せだと知る夜だろう。

 

 

 

日曜日よりの使者

 

週末の話をします。

 

金曜日はバイトの後、羽田空港に行った。

母が韓国旅行から戻ってくるので、迎えに。

 

遅い便だったので時間が空いてしまって、3時間くらい、ぼんやりと過ごした。

今までデッキに出て飛行機を見ても何が楽しいかわからなかったけど、夜の飛行場は結構悪くないな、と思った。

漫画を一冊まるごと立ち読みした。

カタール航空のカウンターの近くには祈祷室があって、中のことを想像した。

大人しそうな眼鏡の男の人が「地球の歩き方 スリランカ」を読んでいるのを見て、(ひとりで行くのかな、怖くないのかな、お腹痛くなったらどうしようとか、知らない人に殴られたらどうしようとか、私はヨーロッパに行く時すら怖いけど、大丈夫なのかな。前は怖かったけど今はもう怖くないのかな、それとも今でもまだちょっと怖いのかな。怖くなくなったなら、どうやって怖くなくなったのか、教えてほしいな。無事に帰ってこれるといいね)などと思ったりした。

エミレーツ航空の制服は、ハッとするほど可愛かった。

 

母がバカみたいな量の荷物を抱えて帰ってきたので、バカだねえ、雨降ってんのにどうすんのこれ、と呆れて、ふたりで帰った。

 

 

土曜日は昼まで寝て、起きてからアメトークを見て、ビールを2本開けて、あとはひたすら携帯ゲームのレベル上げをして過ごした。

自虐のニュアンスは一切なく、本当に有意義だったと思う。

携帯ゲームは1日で20レベル上がったので、満足してアンインストールしてしまった。

 

 

日曜日は「新感染 ファイナルエクスプレス」を観た。

「休日にひとりでゾンビ映画を観に行く女」と表現してしまえばその通りだけれど、別に珍しくもないし、そういうサバサバ感は全然欲しくないな、と思った。

「新感染」は本当に怖くて、途中で具合が悪くなりそうだった。

ずっとハンカチを噛んで、震えていた。

観た後は足が震えて、まさにゾンビのような歩き方になってしまったから、映画にインスパイアされた人みたいになって、恥ずかしかった。

どうにか家にたどり着いたと思ったら、腰を抜かしてしまって、母にめちゃくちゃ笑われた。

もしゾンビが来たら、私は多分、序盤に死ぬタイプの人間だろうなと思う。

でも戦って死ぬのと、腰を抜かして逃げ遅れて死ぬのじゃ全然違う。

せめて、戦って死ぬ側になりたいな。

とりあえず今日から筋トレをしようと思う。

 

 

良い週末でよかったね、明日から月曜日だね、満員電車に乗って、人前ではニコニコして、たまに筋トレをして、頑張ろうね。

さようなら、日曜日。

 

 

テラコッタの心臓

私は辛気臭い人間なのだと思う。

一方、母はさばけた人で、神経が結構太い。

 

私は「お腹が痛かったり熱が出たりすると必ず泣いてしまう」という赤ちゃんみたいな体質で、それも含めて情けなくて、さらに泣けてくる。

今日も昼食のエビフライでお腹を壊して、布団の中で泣いていた。

「あのエビフライめ〜!クソー!シクシク…」という気持ちと、「こんな赤ちゃんみたいに泣いて私は…シクシク」という気持ちで、すっかり湿った気分だった。

ちょうど母から電話が来たから、「23歳なのにこんな…」と泣きながら言ったら、彼女は爆笑しながら「23歳なのにねえ〜!」と言ったのだ。

何がおもろいねん。

具合の悪い娘が遠くからシクシク電話してんねんぞ。

 

「なんだこいつ」と思うけれど、「この人が辛気臭くなくてよかった」とも思う。

私は「寒くてつらい」「コップの持ち手が熱くてびっくりした」「お腹が痛い」「なんかわかんないけど生活の苦しみを感じる」などの理由でよく泣くけれど、母はそれを見て「泣いてんの(笑)」で済ませる。

私は別にしっとり暮らしたいわけでも、カウンセリングしてほしいわけでもないから、それでいいやと思う。

彼女の無神経さと私の辛気臭さで、バランスを取りながらふたりで暮らしている。

 

そしてこういう時、ふと「私はこの人とずっとふたりで、たったふたりで暮らしてきたんだな」と思う。

母と娘という関係の奇妙さに思い至る。

不健全なくらい、母には私だけ、私には母だけで、ふたりっきりで暮らしてきた。

家出をしたり、修復不可能なくらい喧嘩をしても、お互い他に行くあても、頼れる人もいなかった。

私のほうが神経が細くて小心者だけれど、声も性格も嗜好もよく似ている。

これからも、辛気臭さのバランスを取りながら、よく似た母娘として暮らしていくんだろうなあ、と思うと、不自由ながらも心強く、奇妙なこころになるのだ。

 

 

 

(ブログではお腹を壊したことばっかり書いている気がするけど、まったく虚弱ではない。

ただ、お腹を壊してる時と熱がある時って、なんだかすごく惨めで、ひとりぼっちで、誰も助けてくれないような気分になる。

トイレに座りすぎて電気が消えて、真っ暗な中、慌ててセンサーに手を振っている時とか、とくに。

そんな時ばっかりブログを書きたくなるから、胃腸が弱くて神経質な人っぽくなっちゃう。

普段はべつにナーバスじゃない。

何でもよく飲み、よく食べ、よく笑う人だと思う。

平均より胃腸も丈夫だし)