痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

日曜日よりの使者

 

週末の話をします。

 

金曜日はバイトの後、羽田空港に行った。

母が韓国旅行から戻ってくるので、迎えに。

 

遅い便だったので時間が空いてしまって、3時間くらい、ぼんやりと過ごした。

今までデッキに出て飛行機を見ても何が楽しいかわからなかったけど、夜の飛行場は結構悪くないな、と思った。

漫画を一冊まるごと立ち読みした。

カタール航空のカウンターの近くには祈祷室があって、中のことを想像した。

大人しそうな眼鏡の男の人が「地球の歩き方 スリランカ」を読んでいるのを見て、(ひとりで行くのかな、怖くないのかな、お腹痛くなったらどうしようとか、知らない人に殴られたらどうしようとか、私はヨーロッパに行く時すら怖いけど、大丈夫なのかな。前は怖かったけど今はもう怖くないのかな、それとも今でもまだちょっと怖いのかな。怖くなくなったなら、どうやって怖くなくなったのか、教えてほしいな。無事に帰ってこれるといいね)などと思ったりした。

エミレーツ航空の制服は、ハッとするほど可愛かった。

 

母がバカみたいな量の荷物を抱えて帰ってきたので、バカだねえ、雨降ってんのにどうすんのこれ、と呆れて、ふたりで帰った。

 

 

土曜日は昼まで寝て、起きてからアメトークを見て、ビールを2本開けて、あとはひたすら携帯ゲームのレベル上げをして過ごした。

自虐のニュアンスは一切なく、本当に有意義だったと思う。

携帯ゲームは1日で20レベル上がったので、満足してアンインストールしてしまった。

 

 

日曜日は「新感染 ファイナルエクスプレス」を観た。

「休日にひとりでゾンビ映画を観に行く女」と表現してしまえばその通りだけれど、別に珍しくもないし、そういうサバサバ感は全然欲しくないな、と思った。

「新感染」は本当に怖くて、途中で具合が悪くなりそうだった。

ずっとハンカチを噛んで、震えていた。

観た後は足が震えて、まさにゾンビのような歩き方になってしまったから、映画にインスパイアされた人みたいになって、恥ずかしかった。

どうにか家にたどり着いたと思ったら、腰を抜かしてしまって、母にめちゃくちゃ笑われた。

もしゾンビが来たら、私は多分、序盤に死ぬタイプの人間だろうなと思う。

でも戦って死ぬのと、腰を抜かして逃げ遅れて死ぬのじゃ全然違う。

せめて、戦って死ぬ側になりたいな。

とりあえず今日から筋トレをしようと思う。

 

 

良い週末でよかったね、明日から月曜日だね、満員電車に乗って、人前ではニコニコして、たまに筋トレをして、頑張ろうね。

さようなら、日曜日。

 

 

テラコッタの心臓

私は辛気臭い人間なのだと思う。

一方、母はさばけた人で、神経が結構太い。

 

私は「お腹が痛かったり熱が出たりすると必ず泣いてしまう」という赤ちゃんみたいな体質で、それも含めて情けなくて、さらに泣けてくる。

今日も昼食のエビフライでお腹を壊して、布団の中で泣いていた。

「あのエビフライめ〜!クソー!シクシク…」という気持ちと、「こんな赤ちゃんみたいに泣いて私は…シクシク」という気持ちで、すっかり湿った気分だった。

ちょうど母から電話が来たから、「23歳なのにこんな…」と泣きながら言ったら、彼女は爆笑しながら「23歳なのにねえ〜!」と言ったのだ。

何がおもろいねん。

具合の悪い娘が遠くからシクシク電話してんねんぞ。

 

「なんだこいつ」と思うけれど、「この人が辛気臭くなくてよかった」とも思う。

私は「寒くてつらい」「コップの持ち手が熱くてびっくりした」「お腹が痛い」「なんかわかんないけど生活の苦しみを感じる」などの理由でよく泣くけれど、母はそれを見て「泣いてんの(笑)」で済ませる。

私は別にしっとり暮らしたいわけでも、カウンセリングしてほしいわけでもないから、それでいいやと思う。

彼女の無神経さと私の辛気臭さで、バランスを取りながらふたりで暮らしている。

 

そしてこういう時、ふと「私はこの人とずっとふたりで、たったふたりで暮らしてきたんだな」と思う。

母と娘という関係の奇妙さに思い至る。

不健全なくらい、母には私だけ、私には母だけで、ふたりっきりで暮らしてきた。

家出をしたり、修復不可能なくらい喧嘩をしても、お互い他に行くあても、頼れる人もいなかった。

私のほうが神経が細くて小心者だけれど、声も性格も嗜好もよく似ている。

これからも、辛気臭さのバランスを取りながら、よく似た母娘として暮らしていくんだろうなあ、と思うと、不自由ながらも心強く、奇妙なこころになるのだ。

 

 

 

(ブログではお腹を壊したことばっかり書いている気がするけど、まったく虚弱ではない。

ただ、お腹を壊してる時と熱がある時って、なんだかすごく惨めで、ひとりぼっちで、誰も助けてくれないような気分になる。

トイレに座りすぎて電気が消えて、真っ暗な中、慌ててセンサーに手を振っている時とか、とくに。

そんな時ばっかりブログを書きたくなるから、胃腸が弱くて神経質な人っぽくなっちゃう。

普段はべつにナーバスじゃない。

何でもよく飲み、よく食べ、よく笑う人だと思う。

平均より胃腸も丈夫だし)

 

魚の骨が乾くにおい

ここ最近の私はどうにもダメだ。

何をしててもなんかダサい。

 

社交辞令は広義の嘘。

失礼な人には怒るべき。

つまらない飲み会は1時間で帰ったっていい。

 

わかっているけど、どうにもダメ。

 

「デートしよう」「今度はあれを観に行こう」「どこそこで飲もう」

社交辞令も真に受けて、律儀に待ってたり、ダイエットをしてみたり、服を考えたりする。

本当に私に会いに来てくれる人だけを大事にしたいし、それ以外には何にも期待したくないのに、社交辞令を真に受けている間はちょっと幸せなのもまた事実。

ダサい。

 

2ヶ月通ってる整骨院で、整体師が施術後に髪を撫でてくるようになった。

「綺麗な髪ですね、ずっとこうしてたくなっちゃいます……」などと言う。

私の中の強気なおばさんが出てきて

「ヤダ、キモ〜い!女をなめるんじゃないわよ!」

「ギリギリ文句を言われなさそうなラインを探ってるんでしょ!仕事を何だと思ってるのかしらね」

「ブリーチ3回した金髪頭が綺麗なわけないでしょ!見え透いたこと言ってんじゃないわよ!」

と暴れだしそうになる。

でも実際は、「やめてください」も言えずに、次回から別のところを探そうか、でもそれも面倒だなあ、と思うだけなのだ。

本当にダサい。

(ちなみにこのイマジナリーおばさんは、大掃除のときなどによく出てきて「捨てなさい!そんなダサい服、持ってるだけで女が下がる!」「この部屋見てるだけでダサくなってくるわ!」などと尻を叩いてくれる)

 

失礼な人に怒れないことは、私の中では本当にダサくて、ストレスの溜まることなのだ。

「こっちが大人になって流してあげよう」「可哀想な人だと思って……」みたいなスタンスもダサい。

バカを手のひらで転がしてる気になったって、実際はお互い下に見合ってるだけじゃん、と思う。

 

職場の会食なんかで、おじさんたちに

「ファーストキスはいつ?」とか聞かれたり、

「友達止まりの女って感じがするね!」とか

「お前、別に可愛くないからな」とか

「ああ、○○大なの。いい大学出た子は頭でっかちだから社会に出たら使えなくてうんぬん」とか言われたり、

そういうのに「キモーい!うるせえ〜!余計なお世話〜!」と言えなかったり、

そういうのが全部ストレスで、私の中の「ダサさポイント」が溜まっていく。

このままだと私はダサくなりすぎて死んじゃうんじゃないか。

 

私はわりと、よく笑い、よく食べ、よく飲む、あけすけなタイプだから、失礼な人になめられることも多いんだと思う。

こうして「失礼な人」とエンカウントする機会が重なれば、ダサさポイントがどこまでも溜まっていく。

なめられているダサさ、怒らないダサさ、ヘラヘラしているダサさ。

眠れない夜には、こうして積み重なったダサさがじわじわと私を殺す。

 

 

 

そういえば、地元のバーにはたまに「失礼じゃない」タイプのおじさんがいる。

その人が「つまらなかったらその場で立って、帰っちゃえばいいんだよ」って言ってたのを思い出す。

その人には、私と同じくらいの歳の娘さんがいるらしい。

それを聞いて想像したのは、「もし私がそのおじさんだったら、自分の娘には絶対そうしてほしいだろうな」ということ。

失礼なおじさんに失礼なことを言われたなら、空気なんて絶対に読むなよ。

ヘラヘラすんなよ。

お金置いて立ち上がってさっさと帰れ。

って、思うだろうなあ。

私には父親はいないから、よそのお父さんの気持ちを想像することしかできないけど。

 

つまらなかったら笑わないとか、失礼な人がいたら帰るとか、やっぱりどうにも難しいな。

 

今度からイマジナリーお父さんに

「そんな奴無視しろ!」

「門限がありますとか言って帰ってこい!」

「つまらない奴相手にヘラヘラするな!ダサくなるな!」

って背中を押してもらうのもいいかもしれない。

イマジナリーおばさんとイマジナリーおじさんを心の中に飼ってる危ない奴だと思われて、誰にもなめられなくなったらもっといいけど。

 

 

 

 

 

ここがロドスだ、ここで跳べ

 

2年ぶりに家系ラーメンを食べたら、こんな時間にめちゃくちゃお腹を壊すハメになった。

 

 

2年前、大道具を作っていた頃は、よく深夜に作業を抜け出してラーメンを食べに行っていた。

油そばや牛丼かもしれなかったし、あるいは深夜の公園で花火やバレーボールをしたこともあった。

多分何でもよかった。

何をしていても、自分が「若い」ということに自覚的だったと思う。

大学近くのラーメン屋が何時までやっているか、どこのコンビニならタバコを扱っているか、全部覚えていた。

 

戻れないなあ、とは思うけれど、別に私だけが戻れないわけじゃない。

お気に入りのカレー屋は潰れたし、安さとカロリーがウリの弁当屋はだいぶ営業時間が短くなった。

 

ノスタルジーってほど大した話じゃない。

ちょっと心細くなっただけ。

お腹を下してる時のあの惨めさって、何なんだろう。

気力とか尊厳とか、そういうものも一緒に流れていってしまう感じがする。

ひとりぼっちで、誰にも頼れないと、どんな時より強く思う。

 

 

22歳を過ぎてからはよくお腹を壊すようになって、自然と何キロか痩せた。

フードファイターを名乗っていた頃に、胃腸だけは戻りたい。

ダイエットなんかしないで、菓子パンとか焼肉とか寿司とかラーメンとか、好きなだけ食べたらよかった。

固め・濃いめ・多めで、大盛りにして、白米もつけて、深夜何時だろうが食べたらよかった。

ビュッフェだって、恥ずかしがって友達に合わたりしないで、自分のペースで10回でも往復したらよかったんだ。

「○キロ以下になったら、お祝いにすたみな太郎に行く!」とか言ってないで、毎週でもすたみな太郎に行ったらよかった。

そのすたみな太郎は、今行かないと二度と行くことのないすたみな太郎なのだから。

 

後悔してるけど、とはいえ人生の後悔がそれくらいしかないのは、私の美点なのかもしれない。

どうせ誰も戻れないんだし。

誰だって、お気に入りのカレー屋がなくなった世界で生きていくしかないんだし。

「ここにあったカレー屋、本当に美味しかったんだよ」って言い続けられればなあ、せめて。

 

 

 

 

 

この先にパノラマ

 

今日は誕生日でした。

23歳になりました。

 

昨日の夜は、(バースデーとはまったく関係なく)しこたま飲んで帰った。

3軒めからは記憶がない。

朝起きたらひどい二日酔いで、コンタクトを入れたまま寝てたから目も真っ赤。

鏡を見たら、化粧をしたまま寝たからか、ひどく老けて疲れた女が映っていて、あまりに「23歳の幕開け」にふさわしい朝で、笑ってしまった。

それでもバイトに行かなきゃいけないから急いでポカリをがぶ飲みしてシャワーを浴びて電車に乗った。

午前中はひどい頭痛で、使い物にならなかった。

 

昼は、昨日一緒に3軒はしごした人と麻婆豆腐を食べに行った。

二日酔いでよく昼飯なんか食べられるな、と思ったけれど、行ってみたら結構お腹が空いていたことに気づく。

食べたら元気になってきて、午後もポカリを飲みながら働いた。

 

午後、取引先からのメールに

「追伸

本日お誕生日、、でしたよね、、?

明日、、、でしたっけ、、、いや今日だと思ったのですが、、」

と書いてあって、嬉しかった。

3週間前の会食でちょっと話題に出した気もするけれど、まさか覚えているなんて。

「確信はないけどとりあえず聞いてみよう」という律儀さも良い。

私だったら「違ってたら逆に失礼だしな〜。確信ないし触れんとこ!」と思っていただろう。

 

返信で、今日だと伝えたら、仕事の用件とは別にもう一通、「誕生日おめでとうございます」という旨のメールが届いた。

律儀な人は最高だから私も律儀な人になりたい。

 

 

そんなこんなで、23歳になった。

別にフラッシュモブとかケーキとかないけど、いい日だったなあと思う。

寝不足二日酔いスタートの一日でも、誕生日ってだけでちょっとしたドラマのように思える。

まったく劇的でないことを劇的にまなざすこと、本当にこれだけで、何の不足もない。

いい日だった。

タイムス

あるバンドの、ファンクラブに入りました。

 

 

大好きな先輩が、そのバンドのことを大好きで、なんとなく耳に残るようになったバンド。

毎日仕事の終わりに聴かされてるうちに、なんとなく自分でも借りるようになった。

 

まあ、普通に聴くけど、ファンクラブに入るほどではないバンド。

最新曲も知らない。

 

 

秋に、そのバンドのファンクラブ限定ライブツアーがあるらしい。

多分チケットの倍率は高くて、先輩は抽選要員として私を選んだと思う。

「一緒に僻地に行く?」

とだけメッセージが送られてきて、私は愚かなことに、大好きな先輩と僻地に行きたい、そればっかりで月額払ってファンクラブに入って、抽選に応募した。

 

 

先輩は同性なんだけれど、私にとってまぎれもなく「善良な人」だ。

恋とか性とかアリとかナシとか、そういうニュアンスを一切合切度外視して、大好きだと思う。

心から彼女の役に立ちたいし、何より一緒に僻地に行きたい。

絶対に行きたい。

それはロマンチックだ。

 

 

先輩が毎日、日報を書きながら、私に聴かせるために流していた曲だった。

「興味ないんですけどお」と言いながら聴いてるうち、なんとなく耳に残って、TSUTAYAでアルバムを借りた。

そのうち先輩が辞めて、私も辞めて、先輩は私の先輩じゃなくなった。

それでも彼女は私の中に、善良な人として残り続けた。

彼女の倫理ひとつひとつが私を勇気づけたし、殺伐とした満員電車でも、ふっと私を微笑ませた。

 

彼女から「一緒に僻地に行く?」とメッセージが来て、二つ返事でファンクラブに入って、行ったこともない土地のライブに応募した。

 

 

さて、私は愛をはき違えているのだろうか?

 

 

 

 

愛について悩むことが、ライフワークのように思う。

恋には悩んでいないけど、愛には常に悩んでいる。
愛って何?
まぎらわしければ、誠実さって何?
善良さって何?
他人って何?
に言い換えてもらっても構わない。

 

 

たとえば先輩に「アムウェイって知ってる?」とか言われたら、たぶん私は「知らないです!何ですか!?すごい興味あります!」と言ってしまう。

健康でない愛を簡単に信仰できる、自分のそういうところがおそろしい。信用ならない。


彼女が私にとって善良だから、私も彼女にとって善良でありたい。

私に与えられるものがあるなら、心から役に立ちたいと思う。
それは健康に愛なはずだけれど。

私は油断しているといつの間にか愛をはき違えて、しかも正しくない愛を信仰してる自分に酩酊するタイプだから、いつでも愛を(善良さを、誠実さを、他人を)おそれている。

 

 

 

眺めのよい部屋より

 

土曜の夜、あまりの予定のなさに混乱して、衝動的に国立近代美術館に行く。

 

大学から数駅。

衝動が冷めないまま行ける距離でありがたいな、といつも思う。

 

4階には「眺めのよい部屋」という小さな部屋があるのだけれど、椅子とテーブルがあるだけで、他は何もない。

 

美術品はもちろんないし、本も、チラシも、何もない。

 

閉館までの一時間くらい、眺めのよい部屋でぼーっと過ごす。

誰も来ない。

 

 

 

竹橋の、高層ビル群を眺めていると、

「ちっとも無機質なんかじゃないよ」と言いたくなる。

 

当たり前のことなんだけど、「すべての意匠には人間が介在している」ということを最近よく思う。

3Dモデラーとしてのバイトを始めてからかなあ。

ひとつの形を決めるのに、100の検討と、決断が要ること。

ものがこの形になったのは、人の意志とかセンスとかが介在して、すべてに意味と理由があること。

本当に当たり前なんだけど。

 

直線と直角のビルにも、同じことを思う。

カーテンウォールをこの形式にした理由とか。

エレベーターの梁に照明を仕込んだら夜光ってカッコいい、と思ってプランニングしたんだろうな、とか。

全然無機質じゃないよ。

冷たくもない。

結構、情熱的にすら思うけど。

 

土曜の夜なのに、ちらほら明かりがついていて、そこで働いている人の存在を感じる。

やっぱり「思いっきり人間じゃん」と思う。

 

 

 

眺めのよい部屋。

実際、そこまで眺めはよくない部屋。

たった4階だし。

私のマンションのほうがまだ眺めがいいんじゃないか。

 

でも、もし私が部屋で、「眺めのよい部屋」なんて名前をつけられたら、めちゃくちゃ嬉しいと思う。

だから私はこの部屋が好きだ。

 

そんなに眺めもよくない、けど他に使い道もない部屋に、誰かが「眺めのよい部屋」と名付けてくれて、ほかの誰かが眺めを見に訪れてくれたら、そんなに嬉しいことはないだろうな。

「休憩室」とかじゃなくてよかった、と思う。

 

私だって、誰かに名付けられたい。

羨ましいとすら思う。

「休憩」とか「談話」とか、何かをするための部屋じゃなくて、「眺めがよい」。

ただそれだけでいいと誰かがnamingしてくれたら、一生堂々と「眺めのよい部屋」としていられる気がする。

たとえたいして眺めがよくなくても。

 

私みたいに、することのない女の子が訪れて、何をするでもなく座って、また帰っていく。

眺め以外の、一切の情報を与えない。

それだけで部屋としての役割をまっとうできるなら。

 

いいなあ。

私も、眺めのよい部屋になりたい。

「眺めのよい部屋」として、誰かに名付けられたい。

意味と無意味の境界で、どっちにもふれずにいることを許されるのは、どんな気分だろう。

 

ふらふらと帰って、ビールを飲んで、眠る。

土曜の夜の過ごし方に不正解はないと思い至る。