息ができないほど
息もできないほど寂しい夜、ありませんか?
吸っても吸っても苦しくて、深呼吸なんかとっくにできなくて、このまま心臓が潰れて死んでしまうんじゃないかって思うくらい、寂しくてやるせない夜がある。
たぶん、誰にでもある。
別に毎日なわけじゃないし、大人だし。
わざわざ人には言わないけど。
だって、「寂しい」なんて、感情のうちでもっとも陳腐なんじゃないの。
まあとにかく、そんな夜には、「みんなも息ができないほど寂しいこと、あるのかな……」なんて思って、ググってみたりする。
それで、この間「息ができないほど」まで入力したら、予測変換に
「息ができないほど 腰が痛い」
って出てきた。
もう完全に持ってかれた。
だって、めちゃくちゃ可哀想じゃん、息もできないほど腰が痛い人。
わたしの寂しさとか本当にちっぽけだよ。
だって実際、息できるもん。
わたしの言う「息ができない」はあくまで比喩でさ。
でも腰が痛い人の「息ができない」はマジでできないんだよ、たぶん。
腰痛いの超つらいもんね。
もうね、わたしの寂しさとか超どうでもいい。
わたしも寂しいくらいで「息ができない」とか言ってらんない。
息ができないくらい腰が痛い人に比べたら、ほんと、全然大丈夫。
まだまだやれる。
どこも痛くないし。
すげー健康。
息ができないほど腰が痛くなくてよかったー!
腰が痛くないこと幸福を噛み締めてるうちに、もう寂しさとかわりとどうでもよくなっちゃった。
息ができないほど腰が痛い、どこかの誰かにすっかり気を取られている。
不思議なことに、もう「息ができないほど」でググっても、予測変換に「腰が痛い」は出てこない。
死にそうなほど寂しかった私の気を散らすためにGoogleが用意した、優しい予測変換か?なんて思わなくもない。
寂しくなった夜には、「息ができないほど腰が痛い」どこかの誰かのことを考える。
「早く良くなるといいね。
痛いとこばっかだけど、気張って息吸って生きていこうぜ」と。
「スケーエン展」メモ
国立西洋美術館の「スケーエン展」、田舎町の近代生活を生々しく切り取った作家たちの展覧会。
展覧会といっても小規模で、常設展のうちの2部屋をスケーエン作家特集にしたもの、という感じ。
スケーエンは、デンマークの北端の小さな町。
美しい海と砂浜があって、漁業が盛ん。
そしてその風景を描きたい芸術家たちが集まって、コロニーが形成されていた。
それがスケーエン派。
ミカエル・アンカーと、アンナ・アンカーが、やっぱりめちゃめちゃ良かった。
ミカエルは、海難の際に救援隊として駆り出される漁師たちを英雄的に捉えた、ドラマチックな絵が印象的。
アンナは、庶民の家庭における女性たちの、私的な空間での様子を捉える。
田舎町で暮らす女たちに、そこはかとないセンチメントをまとわせた絵が多い。
わたしはルノワールの絵を見るとボロボロ泣いてしまうキモいところがあるんだけど、何を見て泣いているかというと「生活へのまなざし」に依るところが大きい。
これはもう好みとか好みじゃないとかそういう話でなく、「倫理」だとすら思う。
ミカエルとアンナの絵にも、そのまなざしを見た。
身近な人の中に、見知った顔のふとした表情に、英雄性や気高さを見出すこと。
あるいは、朝起きて、働いて寝る、この生活の中にドラマを見出すこと。
このまなざしは、人が持つべき美徳であり倫理だと思う。
逆に言えば、このまなざしさえあれば、他には何もなくてもかまわない、その人の生は永遠に劇的でしょう。
たとえば、病から快復し、臥床に退屈して起き上がり始めた、小さな生命力に。
自分ではないほかの誰かのために、鮮やかな水色のドレスを縫う老女に。
針仕事を教える女と、教わる少女たちに注ぐ陽光に。
気高さと尊厳を見つけるまなざしは、絵画や芸術の枠組みを超えた、美徳である。
海に漕ぎ出す男の絵と、待つ女の絵。
あまりにもありふれていて、どこまでも劇的だ。
地元の漁師たちのふとした表情を描いた素描にすら、ドラマがある。
生活がある。
顔と名前を持つ個人の生。
何を言ったって、ここにあるのはひとりひとつの心と身体で、誰だってその一対のものだけ持って、いくつもの朝を迎えていくつもの夜をやり過ごさなければならない。
19世紀の田舎町に生きる漁師たちにも、21世紀の東京に暮らすわたしたちにも、イージーで楽勝な生なんか存在しないけど。
100年経ったってパンのための労働は厳然とあるし、生活のうつろいやすさも、生活のうつろいやすさに気づけないわたしたちも、変わらない。
世界がいかに自分に対して不誠実だって、それとはまったく無関係に、世界に対して誠実なまなざしを持ち続けること。
不条理をものともせず、目の前の生活を自分のものとして、所有し続けること。
シニカルでアイロニカルな態度は楽だけど、それでも、真に受け続けることに価値を見出したい。
毎日それなりにつらいから理想化はできないけど、たまに鮮烈なものがある以上、生活全部を笑うのはクソダサい。
それなりにつらい毎日の中で、不条理に迎合することなく、みみっちく必死こいて暮らす人間存在を肯定して、劇的なものだとまなざすことは、口で言うほど簡単じゃないでしょう。
ほんと、冷笑するほうが楽だよねえ。
それでも毎日、よく怒り、よく泣き、よく笑い、人間を諦めないで生きたいね。
何度似たような裏切りを受けても、そのつど新鮮に怒りたい。
新鮮に失望したい。
切実に生きたい。
人当たりなんか良くなくても、「大人な態度」で流したり忘れたりできなくても。
それがわたしにとって、たったひとつの美徳だ。
メモ「パロディ、二重の声」
東京ステーションギャラリーの「パロディ、二重の声」、良かったです。
二回行ったんだけれど、一回目と二回目でけっこう印象が変わる。
一回目はやっぱりパロディの面白さに目が行っちゃう。
どちらかというと、パロディが人の目をひくゆえんたる「デザイン」の部分。
元ネタがわかると気分がいいし、名作や偉人を凌辱するような悪趣味かつ不謹慎な態度が小気味よい。
もちろん、「面白いね」で終わらせない工夫もたくさんしてある。
「パロディ」という不思議な存在を解体しようとするアカデミックな言説があらゆるところに標示してある。
解説の充実具合もすごい。
ほぼすべての展示物についてたんじゃないかな?
とにかく、「面白いね〜いろいろあるんだね〜」で終わらせないようにはしてあるのだ。
それでもやっぱり、一回目は「面白いな〜」って気持ちが勝つんですよね。
だって本当に面白い。
やっぱり悪趣味なものへの興味って、隠せない。
「星の王子様」のパロディ本の「ポルの王子様」というエッセイ風ポルノとか。
ヒゲ面の男がグリコのパッケージ風のポーズをとって「ダリコ」なんてタイトルをつけている写真とか。
ほんとにくだらなくてしょうもないけど、みんな大好きでしょ、こんなの。私は大好きだよ。って感じの。
二回目には、初見のインパクトはないんだけれど、そのぶんちゃんとパロディの「アート」の部分に着目できる。
パロディは「元ネタがわかると気分がいい」という、優越感と内輪性によって成り立っているんだね、とか。
ていねいに模倣されているほど、わたしたちは血眼になって元ネタとの差異を探したくなるよね、とか。
芸術の唯一性信奉へのシニカルなまなざし、そしてそれをまなざす鑑賞者の優越感に訴えかける二重の視線がパロディの独自性かもね、とか。
とにかく印象深い企画でした。
誰かと行ってヘラヘラ笑うのも、一人で行って静かに見つめるのもアリでしょう。
たとえば、私の母は美術にはまったく興味がない人なのだけれど、そういう人だからこそ連れて行きたかったなと思う。
今日で終わりなのがとても残念。
ブラ・ブラ・ブラ
卒業式でした。
私は卒業しないんですけど。
サークルは半分くらい、ゼミは2/3くらいの同期が卒業するので、めかして祝いに行ってきました。
数少ない友人にも会って、「おめでとう」と言って別れた。
あまりにライトに別れてしまったから、もっと上手に祝えたら、送り出せたら、とすこし後悔した。
でも、卒業は清算でも解放でもないから、「おめでとう、今日はお疲れ、じゃあまた」と、飲みに行った帰りのように別れられたら一番いい。
今日会ったうちの何人かは、もう一生会わない人かもしれないけれど。
「二度と会わないかもしれない」を予感しながら、「いつでも会えるでしょう」を纏わせる。
どちらの予感を真に信じてるかは私自身にもわからないけど、私たちが今日という日を祝い合うふたりだったという縁は、たしかにここにあったよね。
明晰で、寛大で、軽率で、気分屋で、不誠実で、聡明な、地に足のついてない、どこにもいけない、私の友人たち。
あなたをどこに送ればいいの。
始めてしまった人生を抱えていることと、ひとつの所属を終えたことはまったく別だよ。
どこに行っても、どこにも行かなくても、いつでも会えても、二度と会わなくても、なんでもいいです。
終わりも始まりも、ぜんぶあなたが選んだものであることだけを祈るよ。
こんな夜は、「プライマル。」をずっと聴いてる。安直にね。
VERY GOOD だいぶイケそうじゃん
旅立ったら消せそうじゃん
傷は浅いぞ
はじめて、お酒を飲みながら泣いた。
何かを飲み込みながら、何かを吐き出すのは、最悪の気分だ。
食事と涙は同居させてはならない。
そんなの、生きたいのか死にたいのか、わからない。
数日前のこと。
エンターテイメントの名の下に、「俳優」の名の下に、舞台上の神聖性と演出家の拘束力のもとに、心のやわらかいところに食い込むような、悪趣味で軽薄な芝居をやらされた。
私はもう俳優ですらない。
劇団はとっくに辞めた。
舞台上の緊張感とか演出家のクラップとか、そんな魔法はもう切れた。
すでに舞台人じゃない私にとっては、ただ悪趣味な空間だった。
反射的に涙が出るような、心のやわらかい部分は再びひりひりして、痛い。
何百回も人に「語る」ことで少しずつ前を向こうと積み重ねてきた、地道で途方もない時間は、エンターテイメントの名をした暴力の前に無力だった。
くやしい。不愉快だった。
代替可能な俳優としてでなく、顔と名前のある、代替不可能な個人として、「やめてよ!」って言えたらよかった。
あるいは、「なんでもやります!芝居のためなら何をやっても痛くはないです!」って言えないなら、舞台に上がるんじゃなかった。
最低だったけど、もっと最低なのは今の気分だから、もう二度と、酒を飲みながら泣かないと決めた。
生きたいのか死にたいのか体が混乱して、内臓がぐるぐるする。
私は明日生きるために食べるし、今生きるために飲む。
人の痛みを軽んじないでほしいけど、傷ついてるからって見くびらないでほしいのもまた事実。
安い弱みじゃないから、その場では泣かなかったんだよ。
こんな夜をいくつ泣きながら越えてきたと思ってるんだ。
これからも、いくつでも越えていくだろう。
傷ついたり傷つけたり、選んだり選ばれなかったりしながら。
生きてきたし、生きていく。
泣いて痛くて苦しくて寝れない夜でも、まだ負けてない。
傷は浅いぞ。
イースター・ハイビスカス・クリスマス
今日は、なんだか慣れない気ばかり遣って、何が正解かわからない1日だった。
ボランティア先のホスピスには、新しい患者さんがたくさん入ってきた。
来たばかりの人は、まだ自分の命の終わりを受け入れられていないことが多くて、自分の病気や、家族のことを話してるうちに泣いてしまうこともある。
鷲田は「聴くことの力」で、「相手の言うことをおうむ返しにすることは、臨床の場で、苦しんでいる人に寄り添うために有効である」というようなことを言っていたけれど、実際はなかなか難しい。
おうむ返しに「癌が腎臓に転移して、余命がわずかなのですね」とか言われても、バカにしてんのか、と思うだろう。
家族でもない、初対面の人にかけるべき適切な返しはなかなか浮かばない。
今でも何が正解だったのかわからない。
就活も始まったことだし、本当は今日を最後にしばらくお休みする予定だった。
将来のために、就職活動に専念するのは、まぎれもない「正解」だと思う。
けれど、その患者さんが私の名札を見て、「うみこさんね、またね」と言ったので、なんだか「また来なければ」と思ってしまった。
その人にとって、私は「ボランティアさん」ではなく名前と顔を持つ「うみこさん」になってしまったのだ。
別にその患者さんへの同情とか義務感でもない。
私の代わりなんかいくらでもいる。
それでも、「いっときでも心を揺さぶられたことがあったら、それを追わなければならない」というマイルールがわりと強固にある。
だって、生活のなかに「心を揺さぶられる」瞬間なんて、そんなにないんだ。
いっときでもあったなら、追いかけなきゃ、そんなの、うまく言えないけど、なんか違う。
そういうわけで、これからも月に数回はボランティアに行くことになった。
来月にはイースターのお祭りがある。
季節のイベントをちゃんと準備計画して行うのって、すごく大事だな、と思う。
ホスピスにいる人はほとんど、二度と同じイベントを迎えない。
季節のイベントや節目を迎えるのって、本当にめでたいことだ。
私も、ここ1年くらい、前よりはしっかり季節のイベントを計画してるし、楽しんでいる。
よく一緒に飲む人たち(おもに演劇サークルの先輩で、最悪なお酒の飲み方をする人たち)と、夏にはラフティングやバーベキューをしたし、クリスマスにはごちそうを用意してパーティーをした。
来月にはお花見もする。
計画や準備が億劫で、いつも鳥貴族でグダグダ飲んでるだけだった集団にしては、ずいぶんな進歩だ。
最近は、「季節のイベントをバカにしないでちゃんと楽しむのって、覚えておけるし、みんなで何度も思い出して楽しいし、いいことだね」なんて話をする。
もうすでに今年のクリスマスの予定を立て始めている。
健康に、正常に機能してるうちはたぶん「春を(夏を、秋を、冬を、新年を)迎えられて嬉しい、めでたい」なんて思わないけれど。
ホスピスにいるうちに、新しい季節に自分がここに立っていることがいかに特別か、いくら祝っても足りないくらいめでたいことなのだと、思うようになった。
そういうわけで、 もう少し暖かくなったら、ひとりで高尾山に登ろうと思う。
お花見もはりきってするし、夏になったらハイビスカスを育てたい。
クリスマスだって、今から楽しみにしてる。
ぜんぶ祝いたい。
なんだって楽しみにしたい。
くたくたに疲れたけれど、今はとにかくそんな気分。
ストーリーテラー
タクシーに乗るとき、必ず運転手さんに聞くことがある。
「今まで、こわいお客さんって、乗せたことありますか」
タクシーに乗るのなんて、だいたい年に数回。
だいたい酔ってるとき。
こちらは若い女の子で、しかも見た目には酔いつぶれてるようには見えないので、けっこう面白い話をしてもらえる。
これは、以前、渋谷で飲んでて終電をなくしたとき。
寡黙な運転手さんが、ボソボソと話してくれたことには。
「昔ねえ、深夜に、男の人を乗せて」
「山梨あたりの、山奥まで行ってくれって言われたんですよお」
「こっちが話しかけても、ずっと無言でねえ」
「黒い革の手袋をしていて」
「気味悪いなあ、と思いながら走ってたんです」
「人のいない道をずうっと走り続けて、やっと、目的地に着いて、その人を降ろしたんですねえ」
ご、ごくり。
思わず、唾を飲み込んだ。
深夜2時のタクシー、二人きりの密室だ。
正直、コワイ。
「豪勢な洋館に着いてねえ」
「その人は、ドレスメーカーか何かの社長だったらしいんですねえ」
って、えー!
イヤイヤ、えー!全然怖くない!
20分かけてオチがそれか??
雰囲気作りはプロ級だな!
とんだストーリーテラーだよ!
思ってるうちに、家に着いた。
なんだそれ!
深夜のタクシーには、たまに、稀代のストーリーテラーが乗っていて、知らない世界の話をしてくれる。
それから毎回、私はヘラヘラと「こわいおきゃくさんをのせたことってありますか?」と聞いている。
酔っ払い特有の軽薄さで、夜の首都高のプロを取材したい。
東京の暮らしは、幸せだ。