痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

ストーリーテラー

 

 

タクシーに乗るとき、必ず運転手さんに聞くことがある。

「今まで、こわいお客さんって、乗せたことありますか」

 

タクシーに乗るのなんて、だいたい年に数回。

だいたい酔ってるとき。

こちらは若い女の子で、しかも見た目には酔いつぶれてるようには見えないので、けっこう面白い話をしてもらえる。

 

 

これは、以前、渋谷で飲んでて終電をなくしたとき。

 

寡黙な運転手さんが、ボソボソと話してくれたことには。

 

 

「昔ねえ、深夜に、男の人を乗せて」

 

「山梨あたりの、山奥まで行ってくれって言われたんですよお」

 

「こっちが話しかけても、ずっと無言でねえ」

 

「黒い革の手袋をしていて」

 

「気味悪いなあ、と思いながら走ってたんです」

 

「人のいない道をずうっと走り続けて、やっと、目的地に着いて、その人を降ろしたんですねえ」

 

ご、ごくり。

思わず、唾を飲み込んだ。

深夜2時のタクシー、二人きりの密室だ。

正直、コワイ。

 

 

「豪勢な洋館に着いてねえ」

 

「その人は、ドレスメーカーか何かの社長だったらしいんですねえ」

 

 

 

って、えー!

イヤイヤ、えー!全然怖くない!

20分かけてオチがそれか??

雰囲気作りはプロ級だな!

とんだストーリーテラーだよ!

思ってるうちに、家に着いた。

なんだそれ!

 

 

深夜のタクシーには、たまに、稀代のストーリーテラーが乗っていて、知らない世界の話をしてくれる。

それから毎回、私はヘラヘラと「こわいおきゃくさんをのせたことってありますか?」と聞いている。

 

酔っ払い特有の軽薄さで、夜の首都高のプロを取材したい。

東京の暮らしは、幸せだ。

 

 

 

暮らしだけが規定する

 

今日、急に思ったんです。

マグカップが欲しい、と。

 

うちにある中で一番オシャレなマグカップは、3年くらい前の誕生日にバイト先の人からもらった、niko and…の北欧風マグです。

それ以外のマグは、まあダサいんですね。

キャラものがほとんどで、あとはローソンのシールを集めてもらったやつとか。

それで、今日急に「ダサいマグはもう嫌だ!」って気持ちになってしまった。

ネットショッピングでそれはもう沢山のマグを見たけど、どれもなんだか決め手に欠ける。

ついには陶芸教室の手作り体験まで調べだしまう。

それも含めてピンとくるものはなくて、かれこれ3時間くらい、マグカップを探して過ごした。

 

それで、ふと思ったのは、「"家にあるマグカップがダサい"って悩み、相当平和な悩みなのでは」ということ。

こっちは結構真剣に検討してるつもりなんだけど、客観的に見たら、多分これはかなり平和な暮らし。

そして主観的に見たら、人間のかなり理想的な状態。

 

最近、「生活が趣味」になってきたな、と思う。

たとえば、「帰ったら洗濯干して、まいたけが3パックあるから炒めて、お肉は明日の朝に炒めて、そのままお弁当にしよう。保温できる丼、洗ってあったっけ?」とか考えてるとき。

枯れてしまったサボテンに思いを馳せてるとき。

明日の気温に一喜一憂してるとき。

 

もちろん趣味はあるけど、生活を少しでも蔑ろにしようと思うほどの趣味はなくて。

明日の気温以上の関心ごともなくて。

それって、「無趣味」じゃなくて、「生活が趣味」ってことでいいんじゃないの、と思う。

毎日を少しでも幸福に生きるために時間を使うこと、これって少しも無駄じゃない。

結局買わないマグカップを探したこの3時間も、ちっとも無駄だとは思わない。

結局、漫画を読むとか、美術館に行くとか、心を動かされるものを探すとか、そういう趣味と呼ばれるものだって、「生が単純な反復であることをいかに忘れるか」の知恵だし。

 

けっきょく、私には生活以上の趣味はないよ。

素直にそう思えるようになってきた。

 

前はたぶん、認めたくなかったんだと思う。

どんなにかっこつけても所帯染みなきゃ生きてはいけない、自分にしかできない仕事なんてなくても「パンのための労働」に身をやつさなければならない。

頭ではわかっていても飲み込めなかった、苦い論理。

 

破滅願望は、多分もうない。

私は生活を愛している。

べつに汗をかいたり、修行したりしてないけど、必死こいて生きてるよ。

漫画も読むし、美術館にも行く。山にも登るし、お菓子も作る。刺繍もするし、サボテンも育てる。一人で旅行もするし、ドライブにも行く。お酒もタバコも好き。だらしないのも大好きだけど、カッコつけるのも楽しい。

どれも生活の一部だよ。

どれかひとつをとって、特別だなんて思わない。

どれかひとつが私を規定してるとも思わない。

生活をするだけ。淡々と。

今日は金曜日、明日は土曜日、明後日は日曜日。

淡々と、着々と生きていこう。

これも、意外と簡単じゃない。

 

 

 

青山ブックセンターと私

 

青山ブックセンターの話。

 

たまに近くに用事があれば寄る本屋。

表参道と渋谷の間の、オシャレと贅沢が好きな女の子たちがひしめくエリアにある。

パスタに60分、スムージーに1800円。

人生でパスタ食べるために並ぶこと、ある?と思いながら横目で覗くと、たしかにすっごくオシャレ。何が入ってるかわかんないけど美味しそう。

でも、スムージーに1800円はさすがにダメ。ダメだよ。

ちょっと、女の子たち、インスタグラムに魂売ってない?

もっとプライド持ってよ、いっぺん立ち止まって深呼吸してからお金の価値を考え直してよ。

スムージーに1800円出した後で笑顔で写真なんか撮れないでしょ?本当は真顔じゃない?

3日間もやしと白米で生きなきゃ……と考えるととても味なんかしなくない?

 

まあ、それはさておき、青山ブックセンターは、そんなエリアにある本屋。

デザインとかグラフィックとかファッションとか写真とか、そんな感じのアレに特化してて、そんな感じのデザイナーとか、クリエイターとかがたぶん重宝してる、そんな本屋。

 

 

本当に年に数回しか行かないんだけれど、たまに行くと、「普段ファッションにもデザインにも注目して生きてるつもりだけど、こうして見ると、全然どれにも興味がない」と気づいて、驚く。

 

そうして、クリエイターやらデザイナーやら美大生やらの間を「ううっ……」と思いながら通り過ぎると、ようやく美術や哲学のコーナーにたどり着く。

そこだけようやく息がしやすい。

「ううっ……私は美大生でもデザイナーでもクリエイターでもない……」という謎の後ろめたさ、場違い感に苛まれることなく、じっくり本を吟味できる。

 

 

デザインのコーナーは足早に通り過ぎるけれど、美術書のコーナーには30分いる。

自分でもちぐはぐな苦手意識だと思う。

ふと、杉本博司が「デザインとアートの違い」について話していたことを思い出した。

「デザインとアートの違いは、言葉にできるものがあるかどうか。アートには何かしら語れるものがある」

というような話だった。

これは、結構自分のなかでピンときている。

デザインは、言葉なくしてモノを売るためのアイデアで、目的と機能が前提で……やっぱり「ウウッ……」となってしまう。

だから、青山ブックセンターに並ぶ、クリエイティブないろいろを直視できないのは、

「私はけっきょく、感覚じゃなくて言語の人だから、語れるものがあるものが好きなのだ。究極的には言葉のいらないものとの親和性が低いのだ」

と思って、諦めることにした。

青山ブックセンターとの、内なる和解である。

 

 

 

越冬

 

またまた熱を出して臥せってます(年が明けてからもう4回目!)。

しかも、こんなときに限ってサボテンが枯れてるのを見つけてしまう。

 サボテンも急に死ぬわけじゃなくて、徐々にしぼんで、茶色くなってくんですね。

気付いた頃にはもうなきがら。

 

4つ育ててるミニサボテンのうち、すでに2つが枯れてしまった。

残る2つは元気に育っていて、同じ場所で、同じ水をあげててもちゃんと育たない個体もあるよね、そりゃあね、とも思う。

こんな気分のときは、死んでしまった半分のほうにいっそう自分を重ねてしまう。

体調がいいときなら、サボテンひとつでこんなに落ち込んだりしないのに!

 

 

毎年、越冬は命がけだと思う。

終わらない冬はないけれど、春が来るまで生きていられる保証もないよ、と泣いて過ごした冬が今年も終わる。

春が来たら、泣いたり臥せったりしながら今年も死なずに冬を越せたことを自分で褒めてあげよう。

 

海も見に行こう。

海はいつでも見たいけど、冬の海はあまりに寂しくて立っていられないほどだから。

 

桜より、菜の花が好きだ。

派手好きだから、ピンクより黄色がいい。

 

リネンのシャツも着たい。

洗濯が難しくて、すぐしわになるけれど。

アパレル店員をやっていた頃、「しわになりやすいけど、それもリネンの風合いなんですよ」と言って売っていたけど、言ってるうちに本当にそんな気がしてくるから不思議だ。

 

春の海も、菜の花も、リネンのシャツも、ぜんぶぜんぶ、あとすこし、すぐそこ。

 

 

 

 

「描き続けたまえ 絵画との契約である」

 

東京国立近代美術館の「endless 山田正亮の絵画」行ってきました。

たまたま大学の先生にチケットをもらったので、(もうすぐ終わるし行かなきゃもったいないなー)くらいの気持ちで行ったけれど、すごく良くて、ボロボロ泣いてしまった。

 

以下、メモです。

 

 

描き続けたまえ 絵画との契約である

 “描く”ことを自らの人生と一体化させ、美術の潮流から距離をとり、孤独の中で生涯描き続けた画家、山田正亮。ストライプの画面で知られる彼の画業を網羅した、初の本格的回顧展です。5,000点近い作品から選りすぐった主要作200点超を、初公開の制作ノート群とともにご紹介します。

   (展覧会HPより)

 

山田正亮は、ストライプの作家と言われているとおり、同じモチーフを、執拗に繰り返した。

もちろん、ストライプの色とかデザイン性に本質があるわけじゃあない。

 

「色彩のくりかえしのことは本質あるいは生である」

 「完成させないことだ というより完成は過程である」

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(展覧会図録より)

 

 

山田正亮の反復は、絶えず生成するもの、積み重なるもの、完成がなく、過程だけがあるもの、すなわち生。

「絵画との契約」は、「生活」と同義の営み。

山田正亮は、長い不遇の時代ののち、描き始めて40年後、ようやく日の目を見た画家である。

自身の制作ノートには、画家として認められないジレンマも含めて、丹念に記してある。

それでも、自分の身を削ったその断片を、ひとつひとつ積み重ねるように、同じモチーフを描くことをやめなかった。

たとえば。

「つらいことや大変なことも多いのに、あいつは執拗に生活し続けてるよなー」とは言わない。

何が果たされなくとも、あるいは果たされても、打ち切られずに続いていくのが生活だから。

営むということ。

私は、山田正亮の反復に、「営み」じみたものを感じて、ぐっと来てしまったんだと思う。

「絵画との契約」とはすなわち、反復であり、生活であり、生だったのだろうか。

わからないけど。

塗って、塗りつぶされて、何層にも色を重ねられて、そうしてできた、地層のようなストライプ。

まったく人目に触れないまま埋もれていった色もあるんだろうね。

まるで繰り返される毎日みたいに。

 

 

私がとくに好きだったのは、初期の「still life」シリーズ。

同じモチーフの静物画を7年間にわたり反復し、描いたもの。

実際のデッサンによるものではなく、「記憶の中の静物」だという。

反復される果物。反復される砂糖壺。反復される花瓶。

記憶の中の花瓶は、だんだんと口を画面へと向ける。

気づくと、花瓶の口がみんなこっちを見ている。

だんだん輪郭がぼやけて…背景との境界が曖昧になる。

そして、だんだん幾何学的な抽象画へと……。

記憶の中の静物は、時間をかけてゆっくりと抽象へ、概念へ、なっていった。

 

反復されながらも、確実にうつろうもの。

still life(静物)は、反映している。

still lifeは本当にstillか?

 

ルノワールのときにも書いたけれど、私は生活とか営みへの姿勢、まなざしがある絵がとても好き。

フラットに、人ひとりぶんの寂しさと同居しながら、理不尽に身を晒しながら。

物だって人だって、身体だって心だって、生活していく以上かならず傷はつくけど、それでも。

反復を倦厭せずに認めることは、どこまでも真摯で倫理的だと思うよ。

 

 

それから、山田正亮の制作ノートに書かれた言葉もすごくいい。

円城塔を読んでる時と近い感覚があって、言ってることはわからないけれど心地がいい。

そんな意味の空間に放り出された気がする。

絵画と契約した人間が、それと引き換えに得た言語。

合理性による理解を拒み、視覚に訴求する言語。

わからないまま、ずっと眺めていたいような魅力のある文字列。

 

「グレーの滞在は長期」

「思い切った白を塗る作業に入る 正当性の正当化をめざす」

「作品の内部にあって 終りのない能力をもつ

沈黙と対峙する (白)をくりかえし 追究する」

 

 

というわけで、東京での会期は終わってしまったんだけれど、すごく良かったので京都のも見に行きたい。

言語表現、「語ること」と相性のいい画家かもしれない。

私はやっぱり「語れるもの」が好き。

 

 

煙だけを追っていた

 

タバコって便利な道具だなあ、とつくづく思う。

 

動揺を隠すためにタバコを吸うことがある。

震える手をごまかす、乱れる呼吸をごまかす、泳ぐ目をごまかす。

 

高校時代、3年間ずっと好きだった人に久しぶりに会った。

相変わらず、人間嫌いで、生活が下手くそだった。

カフェでピザトーストを頼んでも、注文したことを忘れたそのまま帰っちゃうような人で、危なっかしいところがあった。

私なんかより何百倍も頭が良くて、生きづらそうな人だった。

 

今は、彼女と同棲してるらしい。

見た目は全然変わらないのに、他人が嫌いで生活が下手くそなままなのに、それでも人を好きになって、人と生活を共有している、というのが衝撃だった。

 

自分以外の人に「時の流れ」を感じると、自分だけ時が止まっているような気がしてショックを受けてしまう。

私だって4年間で人を好きになって、勉強をして、働いて、こだわりを持ったり捨てたりしながら生きてきた。

私だけ変わってないなんてことはない。

絶対にない。

同じだけの時がちゃんと流れてる。

それでも、「私はいつまでもこんなんで」と思ってしまう。

 

うまく笑えないから、タバコを吸った。

どこを見ていいかわからなかったから、目を伏せた。

ずっと煙だけを追っていた。

タバコがあって良かったと思う。

感情の隠し方ばかりうまくなってる場合じゃない。

ずっと吸っていたから、帰りは気持ち悪くて仕方なかった。

 

 

 

BGM:THE YELLOW MONKEY「プライマル。」

 

 

 

近況.食べられない

なんかヤバい風邪をひいてしまい、3日ほどまともにご飯が食べられてない状態です。

(食べると即お腹を下すので)

 

昨日はたまたま「固形物食べられない仲間」の友達と会って、「固形物食べられないあるある」を話して共感の嵐でした。

まず、体力がなくなってるから階段を上るのに異常に疲れる。

駅の階段のキツさが尋常じゃない。

歩くのも超遅い。

早歩きとかできない。

いつもどおりの時間に家出たら遅刻する。

ふわふわのパンとかカステラなら食べられるかな?と思って食べてみるけど、絶対無理。

食べた後、罠かな?ってくらい体調が悪くなる。

味噌汁と野菜ジュースが命綱。

ていうか、あらゆる飲食が賭けになる。

 

 

でも、こういう時に限っておいしいお菓子やパンをもらったりするもので、なおさら悔しい。

食べられないと余計に食べ物のことばかり考えてしまうもので、ついに昨日は「理想の三色パン」を発明してしまいました。

発表すると、「ずんだ、こしあん、ピーナッツバター」です。

他にも栗餡やイチゴジャムなどの案もありましたが、全体のバランスを考えてこの三つに決まりました。

 

家には、ベンアンドジェリーズのアイスや、リベルターブルのトリュフとチーズのマドレーヌ、ディーンアンドデルーカのシトロンマフィンがあって、どれもこれも魅力的。

リスクがあってでも食べたい!と思ってしまう。

でも同時に、お腹を下してトイレにこもってる時の惨めな気持ちも、かなり鮮明に体に刻まれてるので、結局、常温のポカリだけが私の友達です。