痛ましいほど楽園

言いたいことはありません

青山ブックセンターと私

 

青山ブックセンターの話。

 

たまに近くに用事があれば寄る本屋。

表参道と渋谷の間の、オシャレと贅沢が好きな女の子たちがひしめくエリアにある。

パスタに60分、スムージーに1800円。

人生でパスタ食べるために並ぶこと、ある?と思いながら横目で覗くと、たしかにすっごくオシャレ。何が入ってるかわかんないけど美味しそう。

でも、スムージーに1800円はさすがにダメ。ダメだよ。

ちょっと、女の子たち、インスタグラムに魂売ってない?

もっとプライド持ってよ、いっぺん立ち止まって深呼吸してからお金の価値を考え直してよ。

スムージーに1800円出した後で笑顔で写真なんか撮れないでしょ?本当は真顔じゃない?

3日間もやしと白米で生きなきゃ……と考えるととても味なんかしなくない?

 

まあ、それはさておき、青山ブックセンターは、そんなエリアにある本屋。

デザインとかグラフィックとかファッションとか写真とか、そんな感じのアレに特化してて、そんな感じのデザイナーとか、クリエイターとかがたぶん重宝してる、そんな本屋。

 

 

本当に年に数回しか行かないんだけれど、たまに行くと、「普段ファッションにもデザインにも注目して生きてるつもりだけど、こうして見ると、全然どれにも興味がない」と気づいて、驚く。

 

そうして、クリエイターやらデザイナーやら美大生やらの間を「ううっ……」と思いながら通り過ぎると、ようやく美術や哲学のコーナーにたどり着く。

そこだけようやく息がしやすい。

「ううっ……私は美大生でもデザイナーでもクリエイターでもない……」という謎の後ろめたさ、場違い感に苛まれることなく、じっくり本を吟味できる。

 

 

デザインのコーナーは足早に通り過ぎるけれど、美術書のコーナーには30分いる。

自分でもちぐはぐな苦手意識だと思う。

ふと、杉本博司が「デザインとアートの違い」について話していたことを思い出した。

「デザインとアートの違いは、言葉にできるものがあるかどうか。アートには何かしら語れるものがある」

というような話だった。

これは、結構自分のなかでピンときている。

デザインは、言葉なくしてモノを売るためのアイデアで、目的と機能が前提で……やっぱり「ウウッ……」となってしまう。

だから、青山ブックセンターに並ぶ、クリエイティブないろいろを直視できないのは、

「私はけっきょく、感覚じゃなくて言語の人だから、語れるものがあるものが好きなのだ。究極的には言葉のいらないものとの親和性が低いのだ」

と思って、諦めることにした。

青山ブックセンターとの、内なる和解である。

 

 

 

越冬

 

またまた熱を出して臥せってます(年が明けてからもう4回目!)。

しかも、こんなときに限ってサボテンが枯れてるのを見つけてしまう。

 サボテンも急に死ぬわけじゃなくて、徐々にしぼんで、茶色くなってくんですね。

気付いた頃にはもうなきがら。

 

4つ育ててるミニサボテンのうち、すでに2つが枯れてしまった。

残る2つは元気に育っていて、同じ場所で、同じ水をあげててもちゃんと育たない個体もあるよね、そりゃあね、とも思う。

こんな気分のときは、死んでしまった半分のほうにいっそう自分を重ねてしまう。

体調がいいときなら、サボテンひとつでこんなに落ち込んだりしないのに!

 

 

毎年、越冬は命がけだと思う。

終わらない冬はないけれど、春が来るまで生きていられる保証もないよ、と泣いて過ごした冬が今年も終わる。

春が来たら、泣いたり臥せったりしながら今年も死なずに冬を越せたことを自分で褒めてあげよう。

 

海も見に行こう。

海はいつでも見たいけど、冬の海はあまりに寂しくて立っていられないほどだから。

 

桜より、菜の花が好きだ。

派手好きだから、ピンクより黄色がいい。

 

リネンのシャツも着たい。

洗濯が難しくて、すぐしわになるけれど。

アパレル店員をやっていた頃、「しわになりやすいけど、それもリネンの風合いなんですよ」と言って売っていたけど、言ってるうちに本当にそんな気がしてくるから不思議だ。

 

春の海も、菜の花も、リネンのシャツも、ぜんぶぜんぶ、あとすこし、すぐそこ。

 

 

 

 

「描き続けたまえ 絵画との契約である」

 

東京国立近代美術館の「endless 山田正亮の絵画」行ってきました。

たまたま大学の先生にチケットをもらったので、(もうすぐ終わるし行かなきゃもったいないなー)くらいの気持ちで行ったけれど、すごく良くて、ボロボロ泣いてしまった。

 

以下、メモです。

 

 

描き続けたまえ 絵画との契約である

 “描く”ことを自らの人生と一体化させ、美術の潮流から距離をとり、孤独の中で生涯描き続けた画家、山田正亮。ストライプの画面で知られる彼の画業を網羅した、初の本格的回顧展です。5,000点近い作品から選りすぐった主要作200点超を、初公開の制作ノート群とともにご紹介します。

   (展覧会HPより)

 

山田正亮は、ストライプの作家と言われているとおり、同じモチーフを、執拗に繰り返した。

もちろん、ストライプの色とかデザイン性に本質があるわけじゃあない。

 

「色彩のくりかえしのことは本質あるいは生である」

 「完成させないことだ というより完成は過程である」

f:id:umkcc:20170214222935j:plain

(展覧会図録より)

 

 

山田正亮の反復は、絶えず生成するもの、積み重なるもの、完成がなく、過程だけがあるもの、すなわち生。

「絵画との契約」は、「生活」と同義の営み。

山田正亮は、長い不遇の時代ののち、描き始めて40年後、ようやく日の目を見た画家である。

自身の制作ノートには、画家として認められないジレンマも含めて、丹念に記してある。

それでも、自分の身を削ったその断片を、ひとつひとつ積み重ねるように、同じモチーフを描くことをやめなかった。

たとえば。

「つらいことや大変なことも多いのに、あいつは執拗に生活し続けてるよなー」とは言わない。

何が果たされなくとも、あるいは果たされても、打ち切られずに続いていくのが生活だから。

営むということ。

私は、山田正亮の反復に、「営み」じみたものを感じて、ぐっと来てしまったんだと思う。

「絵画との契約」とはすなわち、反復であり、生活であり、生だったのだろうか。

わからないけど。

塗って、塗りつぶされて、何層にも色を重ねられて、そうしてできた、地層のようなストライプ。

まったく人目に触れないまま埋もれていった色もあるんだろうね。

まるで繰り返される毎日みたいに。

 

 

私がとくに好きだったのは、初期の「still life」シリーズ。

同じモチーフの静物画を7年間にわたり反復し、描いたもの。

実際のデッサンによるものではなく、「記憶の中の静物」だという。

反復される果物。反復される砂糖壺。反復される花瓶。

記憶の中の花瓶は、だんだんと口を画面へと向ける。

気づくと、花瓶の口がみんなこっちを見ている。

だんだん輪郭がぼやけて…背景との境界が曖昧になる。

そして、だんだん幾何学的な抽象画へと……。

記憶の中の静物は、時間をかけてゆっくりと抽象へ、概念へ、なっていった。

 

反復されながらも、確実にうつろうもの。

still life(静物)は、反映している。

still lifeは本当にstillか?

 

ルノワールのときにも書いたけれど、私は生活とか営みへの姿勢、まなざしがある絵がとても好き。

フラットに、人ひとりぶんの寂しさと同居しながら、理不尽に身を晒しながら。

物だって人だって、身体だって心だって、生活していく以上かならず傷はつくけど、それでも。

反復を倦厭せずに認めることは、どこまでも真摯で倫理的だと思うよ。

 

 

それから、山田正亮の制作ノートに書かれた言葉もすごくいい。

円城塔を読んでる時と近い感覚があって、言ってることはわからないけれど心地がいい。

そんな意味の空間に放り出された気がする。

絵画と契約した人間が、それと引き換えに得た言語。

合理性による理解を拒み、視覚に訴求する言語。

わからないまま、ずっと眺めていたいような魅力のある文字列。

 

「グレーの滞在は長期」

「思い切った白を塗る作業に入る 正当性の正当化をめざす」

「作品の内部にあって 終りのない能力をもつ

沈黙と対峙する (白)をくりかえし 追究する」

 

 

というわけで、東京での会期は終わってしまったんだけれど、すごく良かったので京都のも見に行きたい。

言語表現、「語ること」と相性のいい画家かもしれない。

私はやっぱり「語れるもの」が好き。

 

 

煙だけを追っていた

 

タバコって便利な道具だなあ、とつくづく思う。

 

動揺を隠すためにタバコを吸うことがある。

震える手をごまかす、乱れる呼吸をごまかす、泳ぐ目をごまかす。

 

高校時代、3年間ずっと好きだった人に久しぶりに会った。

相変わらず、人間嫌いで、生活が下手くそだった。

カフェでピザトーストを頼んでも、注文したことを忘れたそのまま帰っちゃうような人で、危なっかしいところがあった。

私なんかより何百倍も頭が良くて、生きづらそうな人だった。

 

今は、彼女と同棲してるらしい。

見た目は全然変わらないのに、他人が嫌いで生活が下手くそなままなのに、それでも人を好きになって、人と生活を共有している、というのが衝撃だった。

 

自分以外の人に「時の流れ」を感じると、自分だけ時が止まっているような気がしてショックを受けてしまう。

私だって4年間で人を好きになって、勉強をして、働いて、こだわりを持ったり捨てたりしながら生きてきた。

私だけ変わってないなんてことはない。

絶対にない。

同じだけの時がちゃんと流れてる。

それでも、「私はいつまでもこんなんで」と思ってしまう。

 

うまく笑えないから、タバコを吸った。

どこを見ていいかわからなかったから、目を伏せた。

ずっと煙だけを追っていた。

タバコがあって良かったと思う。

感情の隠し方ばかりうまくなってる場合じゃない。

ずっと吸っていたから、帰りは気持ち悪くて仕方なかった。

 

 

 

BGM:THE YELLOW MONKEY「プライマル。」

 

 

 

近況.食べられない

なんかヤバい風邪をひいてしまい、3日ほどまともにご飯が食べられてない状態です。

(食べると即お腹を下すので)

 

昨日はたまたま「固形物食べられない仲間」の友達と会って、「固形物食べられないあるある」を話して共感の嵐でした。

まず、体力がなくなってるから階段を上るのに異常に疲れる。

駅の階段のキツさが尋常じゃない。

歩くのも超遅い。

早歩きとかできない。

いつもどおりの時間に家出たら遅刻する。

ふわふわのパンとかカステラなら食べられるかな?と思って食べてみるけど、絶対無理。

食べた後、罠かな?ってくらい体調が悪くなる。

味噌汁と野菜ジュースが命綱。

ていうか、あらゆる飲食が賭けになる。

 

 

でも、こういう時に限っておいしいお菓子やパンをもらったりするもので、なおさら悔しい。

食べられないと余計に食べ物のことばかり考えてしまうもので、ついに昨日は「理想の三色パン」を発明してしまいました。

発表すると、「ずんだ、こしあん、ピーナッツバター」です。

他にも栗餡やイチゴジャムなどの案もありましたが、全体のバランスを考えてこの三つに決まりました。

 

家には、ベンアンドジェリーズのアイスや、リベルターブルのトリュフとチーズのマドレーヌ、ディーンアンドデルーカのシトロンマフィンがあって、どれもこれも魅力的。

リスクがあってでも食べたい!と思ってしまう。

でも同時に、お腹を下してトイレにこもってる時の惨めな気持ちも、かなり鮮明に体に刻まれてるので、結局、常温のポカリだけが私の友達です。

 

 

生きづらさについて、あるいは彼女について。

 

大好きな友達のことを書きます。

 

大学一年の時に知り合った、一つ年上の女の子。

小さなタトゥーを体の3箇所くらいに入れていて、緑とか、銀とか、奇抜な髪の色をしていた。

いつも高くてごついヒールを履いて、ピタッとした、隙のない服を着ていた。

見た目も尖っていたけれど、中身はもっと尖っていて、彼女の口癖は、「23歳になったら自殺する」だった。

 

私がとくに好きだったのは、悪口がめちゃくちゃ上手なところ。

「病気のチワワみたいな顔」とか、「手がすでにブス」とか、パワーワードをバンバン産み出して、バサバサ切り捨てていくような子だった。

 

その反面、友人相手にはどこまでも懐が大きくて、気前が良かった。

私がどんなふうになったって、どんな人と付き合ったって肯定してくれた。

ほんとうに愛情深い人だった。

 

美人で、ストイックで、料理も歌もプロみたいに上手くて、何もかもを持っているように見えるのに、何もかもを嫌っているような女の子だった。

いかつい見た目とは裏腹に、虚弱な体質で、すぐに疲れてしまうから、放っておけない部分もあった。

精神的にも、表面上は気が強そうな態度をとるけれど、その実、孤独感が強くて、目が離せない不安定さがあったので、私は内心ヒヤヒヤしていたのだ。

「23歳で自殺する」という言葉が、ハッタリで済ませられないようなリアルさで、私に取り憑いていた。

 

 

 

そんな彼女が、去年、専門学校を卒業して、就職した。

アパレルの販売職で、「3年間働いて、英語身につけて、憧れてる海外ブランドに転職する!」と言っていた。

「23歳で自殺する」が口癖だった彼女が、数年先の未来を見ている、と思うと、なんだか泣けてきてしまってしょうがなかった。

 

出会った頃は、ひとりで生きていく、誰もわかってくれない、みんなカス、でもそんな自分が一番カス、って顔をしていた。

私は彼女ほど奇抜な格好をする勇気もなかったけれど、呼応する部分はあったのかもしれない。

生きづらい10代の感性で、自分の脆さを信じて、周りを切り捨てることに必死だった。

あれから3年経って、私も彼女もティーンではなくなった。

人と出会って、別れた。

人を好きになったり、嫌いになったり、選んだり、選ばれなかったりした。

彼女は唯一の家族を亡くし、後悔と喪失の中を、手探りで、少しずつ立ち上がっていった。

 

 

彼女が就職した時、奇抜で派手なものを好む彼女に、初めてシンプルなピンクの口紅を贈った。

無難で、誰にでも似合うピンクを選んだ。

就職するなら、こういうものも必要だろうと思ったから。

 

あれから10ヶ月経って、彼女はまだ、健康に働いている。

病弱で、すぐバテてしまう彼女が、と驚いた。

(以前、私もアパレル販売のバイトをしていたけれど、ものすごく体力と気力のいる仕事だった)

「体調崩しても休めないからさ、必死に生きてるよ!」と言っていた。

必死に生きてるのか、ならよかった、と心底思う。

 

彼女は今年、24歳になる。

自分の生きづらさに蓋をして、必死こいて生きるほうを選んだのだ。

美しい、と思う。

かつて、尖り散らしていた彼女が大好きだった。

繊細で、屈折した、生きづらそうな悪意が好きだった。

でも、これからの彼女がかつての繊細さを失って、たくましく、所帯染みながら、目の前の生活に必死になったとしても、いや、そうであればこそ、ますます美しいなあと思うだろう。

 

 

ダサくてもいいからさあ、なりふり構わず、必死こいて生きようね。

私もあなたも。

 

 

 

微熱、生活、闘争、雨です。

 

なんだか訳がわからないくらい疲れて、何もする気が起きない。

熱を測ったら、微熱。

他に症状はないから風邪とかじゃなさそう。

疲れて熱が出ただけらしい。

たしかに、バイトと授業とボランティアが詰まっていて、休みがなくて、少し疲れていた。

けど。

 

なんだか情けなくて、泣けてきてしまった。

 

最近はそんなことばかりだ。

私は健康で、タフで、無茶のできる女の子だったはずなのに。

こんなにすぐ熱を出したり、食あたりくらいでパニックになったり、そのことに情けなくなって泣いたり。

こんなんじゃなかったのに。

「あるべき私の姿」からどんどん離れていく。

こんなんじゃなかった。

もっと堂々と生きていた。

 

2017年の1月だって、2016年の12月と地続きだ。

急にうまくいくようになるはずがない。

わかってる。

わかってるけど、賭けてたんだ。

悪いものは全部、新年の訪れとともに逃げていくと。

合理性はないけど、絶対そうに決まってると思ってたんだ。

だって、そうじゃないと救われない。

頑張れない。

何も楽しみにできない。

めそめそした気分は全部2016年の終わりに置いてきたつもりだった。

はずなのに。

実際は地続きの2017年1月8日を生きている。

めそめそしながら。

こんなんじゃなかった、とか言いながら。

 

情けない、理想と違う、こんなの私じゃない、なんてみっともない呪詛を吐きながら、泣いている。

それでも朝になったらお化粧をして電車に乗って、お金のためにニコニコする。

生活は戦いだ、と心底思う。

この死にやすい体と心、たったひとつで、どこまでも遠く、続けなければいけない戦いだ。

情けないけど、戦っている。

やめてない。

生活を続けている。

続けている限り、負けてはないのだ。

地を這っても、泥水を啜っても、まだ負けてない。

貧弱で情けないけど、破れかぶれで騙し騙し、毎日を戦ってる。

そう思えば、あと一日くらいはがんばれるかも。