痛ましいほど楽園

就留女のたのしい毎日

そうだ、ピアス開けよう

 

そうだ、ピアス開けよう。

 

ふと思った。

 

 

 

年内最後の授業で、先生に呼び出されて

「もう5回も欠席してるようなので、レポートと発表でかなり頑張らないと厳しい」

と言われる。

1マス戻る。

 

バイト先のチョコレート屋は繁忙期で、時給は上がらないのに仕事だけが増える。

一回休み。

 

もらったケーキを食べたら、今年一番の胸やけで吐きかける。

3マス戻る。

 

「彼女はいない」と言っていた男に、実は彼女がいた。

ふりだしに戻る。

 

 

つらい。

シンプルにつらすぎる。

 

 

そうだ、ピアスを開けよう。

左右ひとつずつ、すでに開いてるから、右にもうひとつ開けよう。

ショートヘアを耳にかけて、小さなピアスをふたつ、チラリと見せよう。

一日に何マスも戻ってるようには見えない、気が強くていい女になろう。

 

 

思えば、最初にピアスを開けてから、もう7年。

あれは15の時だった。

高校に入る前に、友達と「開けようぜ」とか言って。

 

整形して目を二重にしたのも、15の時だった。

目が一週間腫れて、同窓会に出れなかった。

 

コンタクトを入れ始めたのも、15の時。

全然入らなくて、眼科で2時間も粘った。

 

あの時は、なりふり構わず、変わりたかったんだと思う。

 

痛いかもとか、怖いとか、そんなリスクも目に入らないほど、ありありと思春期だった。

あざやかで、強烈なエネルギーだった。

 

公立中学校のダサい制服も、イモいすっぴんも、こんなの本当の私じゃない、と思って、私服の高校に進んだ。

15歳なりに、下手な化粧もたくさんしたし、変なコーデもたくさんあった。

ピンクのカーディガンで高校に通ったし、スクールバッグにはアホみたいにデカいダッフィーをつけてた。

 

しょーもないやり方でしかなかったけど、それでも私は、15の私に憧れる。

 

7年経ってどうなのかといえば、変わりたいとは願いつつ、痛いのは嫌だし、膿んだら怖い。

お金も貯めなきゃいけないし、今あるもので生きていけないわけじゃない。

 

あー、おとなだ。

 

22歳だから無茶はできない。

重すぎるケーキを食べれば胸やけするし、時給が上がらなくてもバイトは辞められない。

 

 

 

ヤケになってピアスを開けたりする行為。

世間的には望ましくないとされていますが、私は必要だと思うんです。

ピアスを開けたり、断捨離をしたり、現状を変えるための「少し傷つくこと、身を切ること」って、少なからずヤケクソな気持ちにならないとできないんです。

 

ヒステリックで、やりきれない。

そんな気持ちでなければ、踏み出せないこと。

毎日がそれなりに満足で、つらいこととしあわせなことのバランスが取れている生活ならば、必要のないこと。

ヤケクソのエネルギーに賭けてみる。

 

 

「明日、ピアスを開ける」と決めた。

1マス進む。

 

 

 

「存在した、生きた、愛した」

 

ホスピスでボランティアをしています。

 

この間、とても些細だけれど、「なまなましい」と思う出来事があった。

先日のクリスマス会でのこと。

 

クリスマス会では、患者さん全員に手作りの小物をプレゼントしている。

その準備をしているときに、ボランティアの先輩が

「これ、毎年同じものをあげてるのよねえ」

と言った。

私は、「えっ、マジで?それってどうなん?」と思ったわけだけど、先輩は続けて

「ここで二度もクリスマスを迎える人はいないから」

と続けた。

「ああ、そうか」と妙に納得してしまった。

そうか、ここにいる人は、おそらく全員、来年のクリスマスを迎えることはないのだ。

考えれば当たり前なのだけれど、あらためてハッとしてしまった。

私には想像できなかった。

「来年の今頃、私はいない」とか、「最後のクリスマスだ」とか、そういう状況を。

22歳の私にとって、一人称の死はフィクションの世界のもので、残りのクリスマスの回数をカウントしたこともなく、カウントしてみたところで現実味のない数字だった。

しかし、ホスピスにいる人々にとって、カウントは「ゼロ」なのだ。

「生の一回性」というものは、あまりに自明すぎて、普段の生活では思考にすら上らない。

ただその時は、自明すぎるその言葉が、「まさに」、「たったの一回だ」となまなましく感じられた。

 

もうひとつ。

Kさんという患者さんがいる。

Kさんは涙もろくて、すぐ「綺麗ねえ」「楽しいねえ」と言って、泣いてしまう。

クリスマス会でもKさんは、ニコニコしながら、時折涙ぐみながら、写真を撮っていた。

何枚も。

これも私にとってはショッキングだったのだ。

 

人はなぜ写真を撮るのだろうか。

人に見せるため?

眠れない夜に見て、暇をつぶすため?

忘れた頃に見て、懐かしさに浸るため?

イベントごとでは写真を撮るもの、という習慣によるものかもしれない。

 

Kさんを見て、私は「写真を撮る」ことの意味がわからなくなってしまったのだ。

「数ヶ月後に自分はもういない、と知っている人間が、その日見たものを記録する」、その時の気持ちというのは、どうしたって想像しがたい。

でも、もし私なら、何かを書いたり、撮ったりするときに、「これは数ヶ月後に"亡くなった人の最後の数ヶ月の記録"になる」ということを忘れて何かを残すことはできないだろう、と思うのだ。

 

もちろん、Kさんがどういう意思のもとで写真を撮っていたかなんてわからない。

それでも、少なくとも私は、その場において、「写真を撮る」という日常的な行為の中に、死を見据えた存在が何かを「残そうとする」意志を見て、ショックを受けたのだ。

 

 

今日、授業でリヒターやウォーホルの写真論を聞いた。

そこでなんとなく思ったのは、「Kさんの写真」にショックを受けたのは、それが写真の本質に迫ったものだったからかもしれないということ。

 

リヒターやウォーホルは、アウシュビッツや処刑場、事故現場の写真を撮った。

リヒターは、ピントのずれた写真もあえてそのままコレクションし、模写した。

なぜ?

 

ピントのずれた写真。

写真の腕、出来、鮮明さ。

写真が与える「ショッキングな印象」は、そういったものとまったく関係なく存在する。

それは、いかなる場面であろうと、「その場にシャッターを押した人がいた」という事実から来る感情であり、情緒だ。

そして、その出来事(アウシュビッツや処刑、事故)が起こったという事実、その出来事の一回性、唯一性、逆行不可能性、決して取り返しえないということ。

これらが写真の出来や鮮明さに関わらず、絶対に誰にも変えられないということ、目撃されたということ、記録されたということが、写真を見た人にショッキングな印象を与えるのではないか。

その時間、その出来事の一回性。

唯一であり、同じことは二度として起こらないし、また起こったことをなかったことにもできない。

これまでの、あるいはこれからの世界の歴史がいかに長く続いて、一回の出来事が無限小になり、起こったことが「ほぼ無」と同様といえるくらいに小さくなっても、「無」と「ほぼ無」の間には無限の距離がある。

これと同じように、些細なことでも出来事が「起こった」、ある人が「存在した」ということを、世界は未来永劫、考慮に入れて存在し続けなければいけない。

そのおごそかさ、自明でありながらハッとするような一回性の奇妙さ。

この事実は、写真が不鮮明であればあるほど対照的に、明確に浮き上がってくる。

これが写真の持つひとつの性質である。

 

このことを踏まえて、Kさんの撮った写真のことを考える。

やはりKさんの意思がどうであっても、Kさんの写真は、

「ある人が、自分が死すべき存在であると受け入れた上で、いかなる形で世界に存在し、生活したか。何を見たか、どういう見方で世界を見てきたか、何に心を動かされたのか、ということを残す行為」

であることに違いない、と思った。

何か息が詰まるような思いがした。

圧倒的な人類の連続性からすれば無限小ともいえるひとりの人間が、その死の間際に何かを残そうとする行為。

「たった一回」「ほんの一瞬」の生の中で、世界と自分の関係性を焼き付ける行為。

それが「写真を撮る」という日常的な所作に還元されていることにハッとする。

これが、ホスピスでの日常、生活の中に厳然として存在する「なまなましさ」であるように思う。

 

 

タイトルはウラジミール・ジャンケレヴィッチ「死」の最終章から。

ジャンケレヴィッチの中でもとくに美しい章です。

 

 

 

 

希死念慮と完全犯罪

 

雪が嫌いとか、お腹が痛いとか、そんなくだらないことでは泣けるけど、泣くことでしか癒されないような傷を負ったとき、本当に泣くべき場面で私は泣けない。

 

チャチな嘘をつかれて、ヘラヘラ謝られたようなときにこそ、わんわん泣けたらいいのにと思う。

 

でも、これは私の数少ない美点なんだけれど、「死にたい」と思うことがほとんどない。

「死にたい」より「絶対殺す」が先行する。

 

昨日も、男にチャチな嘘をつかれて傷ついたけれど、「死にたい」とか「私には価値がない」とは一切思わなかった。

 

まずは「人を殺す バレない」

「完全犯罪 方法」

で検索。

そして、完全犯罪を手伝ってくれる彼氏が欲しい、と思った。

屈強で、成人男性ひとりを運べて、IQ150くらいあって完全犯罪のトリックを思いつけて、さらにサイコパス気質の彼氏が必要だ。 

どこで探せばいいの?相席屋?

 

嘘をついた男をとりあえず倫理で殴ってみたけれど、嘘をつくような人間は倫理で殴られてもちっとも痛みを感じないから、物理で殴るしかない。

倫理は無力だ。

誰のもとにも平等なのは、死と時間だけ。

私だって人を殴りたいわけじゃないけど、痛みしか通じない人もいる。

たまたまアイスピックなどを持っていたら、多分刺していただろうから、アイスピックを常備してなくて本当に良かった。

 

「じゃあ、今から俺、本気で謝るから、電話切らないで」

というヘラヘラした声を思い出すだけで、心がマッチョになる。

闘争心と殺意の塊だ。

スタンドが発現してもおかしくないんじゃないか?

今の私は、矢で刺されても死なずにスタンドを発現させる自信がある。

ちなみに私は、ザ・ワールドが欲しい。

ザ・ワールドで小銭を盗んで暮らしたい。

もし私にスタンドがあったら、私に嘘をつく男は残らず殺してしまっていただろうから、私にスタンドがなくて本当に良かった。

 

 

と、思ってはいるけれど、本当はわんわん泣いてしまいたいのもまた事実。

涙も出ないだけで。

この際めちゃめちゃに汗をかくとか、映画を見て泣くとかでも十分な気がする。

週末が来たら、とっておきの海外ドラマで泣こうと思う。

「あいつのせいで泣いてるんじゃない」という虚勢で自分を甘やかして、目が開かなくなるくらい泣こう。

 

週末の予定ができて嬉しい。

これだって、虚勢でしかないけれど。

 

 

残り15の夜を前に

ちょっと気が早いけど、一年を振り返ります。

 

 

今年は本当に大殺界で、失恋、就活失敗に始まり、変な病気をいくつかしたし、悲しいこと、難しいことがたくさんありました。

 

昨日もちょうど、不当に悲しい目を見るようなことがあり、「さすが大殺界、最後まで気が抜けないなあ」と思ったりしました。

 

いいことと言えば、ジョジョを読み始めたことくらい。

(でも勢いあまって全巻揃えたら、クレジットカードが止まり、カード会社から電話が来て、はじめて親に借用書書いて借金しました)

 他にはとくに思いつきません。

 

それでも、今年も、手首を切ったり、食べたものを吐いたりせずに365の夜を、この心と身体ひとつで乗り越えてこれたのは、本当に幸運だったと思う。

尊厳が傷ついて、心がバラバラになりそうなピンチの夜に、ただ話を聞いてくれたり、お酒を飲むために駆けつけてくれた人のことを、私は忘れないでしょう。

いいことはほとんどない年だったけど、「この夜、この人がいてくれて本当に助かった、ありがたかった」と思うことは今までで一番多かったかもしれません。

 

昨日も、深夜に「また男に嘘つかれてた?」とLINEしたら、普段おっとりした先輩が「頭大丈夫かな?殺そう」と言ってくれて、とても楽になった。殺そう。

 

 

老いや病など、正常に機能することができなくなった局面でこそ、他者との関係性の中で生きてることが際立って感じられる、と以前読みました。

最近、身をもってわかってきた気がします。

 

私は今年、「どこかに所属して、役割を与えられて、そこでの規範を信じて、何か価値を生み出しながら暮らす」というあり方から外れてしまい、なすすべなく、茫洋と生きてきました。

毎日身体が重く、起きたらまた一日が始まることが恨めしくて、自分が今どこにいるか、どこに行きたいのかもわからないような日々を送ってきました。

その中でいくつかショックなこともあって、ボコボコに殴られたような気持ちを何度も味わってきました。

それでも私は、ただの一度として、「自分には価値がない」と思ったことはないので、もしかしたら相当したたかで、幸運の星のもとに生まれているのかもしれません。

 

苦しい夜に、手首を切ったり、食べたものを吐いたり、何かを壊したりすることなく、「自分には価値がない」と思うこともなく、どうにか朝を迎えてきたということは、今年の私にとって奇跡のように思えます。

そして、この奇跡のような事実は、来年以降の私の「ピンチの夜」を助けてくれる勇気になるでしょう。

本当によく頑張った。

 

叶わなかった理想や、報われなかった情熱がたくさんあって、その挫けたもの、死んでしまったものを持って、また365の夜に立ち向かっていかなきゃいけない。

生きることは大変な重荷だ。

それでも、何があっても死なずに朝を迎えてきました。

私は多分、大丈夫でしょう。

いくつになっても許せないものや理解できないものはたくさんあるだろうけど、よく怒って、よく泣いて、したたかに生きていこうと思う。

 

来年の目標は、「PS4を手に入れること」くらいにしときます。

 

 

泥酔のメモ

「ラーメン食べたい」

「海苔の佃煮をアテにしてもう一杯だけ飲みたい」

ルノワールの絵だけを延々見つめてたい」

「なんか知らんけど気づいたらめっちゃ肩凝ってるヤバい」

「これから家帰ってプレステ4があったらめっちゃ嬉しいだろうな」

「めちゃめちゃ顔が好みな人とご飯食べたい」

 

わりとはちゃめちゃに酔ってるけど頭に浮かんだことを頑張って文字にしました。

はちゃめちゃに酔ってるので、ぜんぶ重要なことに思えます。

 

 

ヒリヒリと

1年とか2年前は、「幸せになりたい」と鮮烈に願っていた気がする。

 

こんな夜に思い至るのは、最近は「幸せになりたい」と思うことすらなくなったな、ということ。

あまり幸の薄そうなことは言いたくないけど。

思うのはただ、遠くへ行きたいということ。

台湾あたりに連れてってよ。

拐うように、誰か。

 

わかっているのです。

そんな「誰か」はいないということは。

「誰か」も「いつか」も訪れず、あるのはこの夜だけだということも。

私は、この身体と、この心だけで、どんな夜も越えていかなければならないということも。

 

浅ましい予防線は張りたくない。

たったひとつの身を晒して、傷つきながら、生きていきたい。

他人に消費されずに生きていくことはできない。

悪魔のような人は案外どこにでもいる。

不当に傷つけられることもあるし、自分をまったく大切にできない日もある。

それでも、「身を削らない人は面白くないし、傷ついてない人は可愛くない」が私のモットーです。

ボロボロの夜に私を救うのは、「ちゃんと傷ついている人は可愛い」という私自身の思想です。

傷にだって価値はある。

 

ただ、丁寧に生きたい。

 

魔法がとける

ユーリ‼︎!onICEを全話見たり、ジョジョ一挙放送6時間を一挙に見たり、インフルエンザを満喫してます。

 

明日から社会復帰。バイトと大学。

 

四肢を投げ出して

「おうちにいるのも飽きたけど〜〜働きたくな〜〜〜〜い!

そもそも病気になりたくな〜〜〜〜い!

健康でいた〜〜〜〜い!」

と叫んでる。えーん。